正体不明のストーカー。学校の限界と警察の無力、保護者の無責任化。

~犯人は誰だ?→校内で起きないこと(被害者の安全)→何も変わらない。

〈ケース1〉

 ある時期のある学校のケースである。意外と一般的なよくある話だが、ここにいろんな「闇(限界と勘違い)」がある。

 始まりは、秋口、部活動の人間関係のもつれから、部活動後、更衣室の被害者Aの鞄に誹謗中傷の手紙がいれられる。顧問は、すぐに部員全員を集め、事実確認と首謀者は誰か、を確認するミーティングをする。が、犯人は、わからず、顧問はしばし部活動停止。当該学年は学年集会を行い、記名アンケートをする。→効果無し。

 その後、ラインを使っての誹謗・中傷が起き、数ヶ月も続くため、学校側は、警察の協力をあおぎ、加害者を特定するよう被害者家族に提案する。被害者家族は警察に届け出るが、警察は「様子を見る」の1点ばり。その後、しばらく小康状態が続くが、年が明け、学年があがり、再び、同様の事案が起きる。今度は、左手で書かれたような文字で誹謗中傷の手紙が、自宅に、そして、近隣の同級生やその友人の家やその周囲のものにはさまれたり、被害者家族の自宅のドアの鍵穴に瞬間ボンドが塗り込まれたり、ペンキで嫌がらせをされるなどの事が起きる。母はノイローゼ様になり、子供は、学校に「行きづらく」なり、遅れてきたり、休む事が多くなった。

 この事態を受けて、警察は「事件化」することとし、可能性が疑われる「数人」の生徒の指紋を任意で取り、事情を聞く。

 その間、学校は、何度目かの学年集会で、情報提供の協力を求めつつ、被害者の生徒に寄り添うことを話す。→その翌日、再び、「学校は何も出来ない。」「あんまりあおるなや、絶対に警察にもわからん」などの手紙が、同様に、被害者家族自宅に届く。

 その後、保護者集会で事実を伝えるも、同様に、2~3日後、それを揶揄する手紙が届く。→その後、警察の動きも知らされず、特に進展無し。

 周辺住民の協力や防犯カメラの設置するも、今度はどこからか同様の手紙が郵送される。保護者集会では、「いつ自分の子供も同様の事が起きるかわからない。詳細を教えて欲しい」「犯人の目星がついていると子供は言うが、誰なのか」など、半分興味本位の発言もあった。その間、その手紙や、その報告は昼夜・夜中問わず、学校・他人の携帯に届くようになった。

〈学校・警察・地域の闇〉この事案から思うこと。〈学校・警察の限界〉

学校側→・この時起こっている事案はすべて学校外である。(きっかけは学校内だが)

    ・学校には、加害者の揶揄するように、加害者を特定する調査の権限は非常に

     少なく、不可能に近い。(その少ない可能性も、小中の中で培われた生徒の

     教師・大人への信頼に因るところが大きい。)

    ・きっかけは、部活動顧問の力量不足もあるだろう。(管理能力)。時には、

     それを自覚していない面々も当然いる。

    ・当該担任は、被害者の保護者の気持ちに寄り添うあまり、他の生徒へ心行か

     ず、否定的な(この中に犯人がいる)イメージで生徒を見るようになった。

     〈たしかに、これ以上打つ手は無しだが・・・・。〉

警察側→該当(被害者に濃厚接触した)生徒・家族への事情聴取、指紋捺印はする。照

    合するするが該当せず。ここで、もちろん、自作自演を学校側も可能性として

    否定できず、被害者・家族へも指紋捺印させる。被害者や近い立場の人々にし

    たら、動きが遅いし、情報がもらえない。この事案も、最初の「相談」の時、

    ライン会社へ動いて加害者が特定できれば、もしかしたらここまで事案が大き

    くならなかったかも知れない。半年後ライン会社に協力を要請するも、解決に

    繋がる情報をもらえず。その後は音沙汰無し→打つ手がないのだろう〉

被害者→遅刻したり、その理由もさまざまで、当然の様子で学校へ。体調不良で遅刻す

    るも部活では普通に活動。髪の長さなどの校則を違反するも、同様に指導でき

    なくなる。(そのことには現状から担任触れることできず)

加害者→様々な様子・行動からも特定できず。半年にも及ぶ執拗な「ストーカー行為」

    の背景に、どんな「事件」があったのだろうか。その存在すら許せなくなった

    としたら、どんな解決が可能なのか?

 

 この〈ケース1〉では、近隣の関係者でも、無関係な部分が大にしろ、「興味本位」のワイドショー的な感覚を、正しそうな声でかき消し、主張する。中には、本当に正しいと思い、被害者・家族が躊躇する中、行動指針みたいなものを、被害者に渡したり、警察に直訴したりと「困ったちゃん」が現れたりしたという。学校には「限界がある」が、それを言えないがため、保護者も中途半端な味方しかできない。学校には調査権限もなく、学校外の事件を、教職員が、見張り・見回り・調査することは、不可能に近いし効果的ではない。それなのに「学校はなにをしている責められても、無意味・無駄である。

 唯一の「警察」も、人権上、一番効果的な、全生徒の指紋調査ができないため、こういう事例は、解決に近づけない事が多い。

 結局、この悶々とした事案を「もんもん」とさせているのは、人権という大仰なものなのだ。人を守る為の法律が、人を苦しめる矛盾。

 正しいことを行使できず、ごまかしで自己満足する学校・警察、そして聞くだけの教育委員会

 こんな事が、近々で起きたなら、どうすればいいのか。もし戸建てでないなら、引っ越し・転校である。これは、「負けではない」。経験を力にかえるための「撤退」。親も子もそう考えるべきだ。私も、周りは考えすぎだと笑ったが、中学卒業までは、前述の理由で、賃貸暮らしを選択した。では、戸建ての家族は?逃げるわけには、なかなかいかない。鈍感になるか、戦うか、どちらかしかないだろう。ただ、叩くにしても、警察は、こういう事案には、実は無力で、「大きな事故」でもないかぎり警察主導で解決できた例はあまり多くない。学校には限界もある。管理職や学年主任の力量・価値観にも大きく左右される。味方は、自分たちしかいない。が、もしかしたら、犯人は自分の子供の自作自演であったり、さっきまで心配顔で隣にいた隣人(同級生)やその保護者かもいれない。・・はたまた、被害者と思われる本人あるいはその保護者が加害者という可能性もあるのだ。・・・

 被害者に寄り添いすぎた挙げ句利用される。被害者に「親身」になる。そこに深い闇が手を広げて待っていることもあるのかもしれない。

中3に避妊教育…適切? 都教委「性交渉助長恐れ」 識者「行動慎重になる」

~「そういうこと」を人はいつどうたって知ってきたのか?

〈中3に避妊教育…適切? 都教委「性交渉助長恐れ」 識者「行動慎重になる」〉

 

 

 東京都足立区立中学校で行われた性教育が都議会で「不適切だ」と指摘されたことをめぐり、性教育の在り方が注目を集めている。学習指導要領を超えて避妊や人工妊娠中絶に言及した内容を問題視し「性交渉を助長する可能性がある」と、“行きすぎた性教育”を懸念する声が出る一方、識者らからは「正確な情報は行動を慎重にする」といった意見も。「学校で何をどこまで教えるべきか」をめぐって議論が噴出している。(高橋裕子

 「生徒や保護者の多様性に配慮し、現場は萎縮せず積極的に性教育を行ってほしい」「時代を先取りして教えるのがベストなのか」。授業の経緯が報告された4月26日の都教委定例会では、教育委員から賛否両方の意見が出た。この会合では、「今後、学習指導要領を超える内容を扱う場合には、保護者の了解を得た生徒を対象に個別やグループで指導を行う」とする方針が確認された。

 足立区教委によると、授業は3月、3年生の総合的な学習の時間に「自分の性行動を考える」と題して実施された。「高校生の性交は許されるか」などについて数人の生徒が意見を述べ、養護教諭らが避妊や人工妊娠中絶に関する正しい知識を説明。コンドームや緊急避妊薬などの特徴や使い方、入手方法を明記した資料も配布した。学校は事前に保護者会などで周知し、授業を保護者らに公開したが、否定的な意見はなかったとしている。

 この授業を問題視したのは都教委だった。生徒全員を対象とした授業で、小中高いずれの学習指導要領でも扱わないことになっている性交渉を取り上げ、本来高校で扱う避妊や人工妊娠中絶について具体的に説明したためだ。都教委は「性交をしてもよいかのような内容で、かえって助長する可能性がある」と指摘。保護者への説明も不十分だったとする見解も示した。

 授業は都議会文教委員会でも批判を受けた。「不適切ではないか」と質問した古賀俊昭都議(自民)は、学習指導要領を超えた内容を扱ったことのほか、「ほかの生徒や参観者の前で性に関する自分の意見を述べさせるのは、生徒の心の中に踏み込むことで配慮が足りない。また、生命の誕生につながる妊娠を性交のリスクのようにとらえてよいのか」と疑問視する。

 一方、学校で性教育の出張授業などを行うNPO法人ピルコンの染矢明日香理事長は、「『発達段階に応じた科学的な情報を伝えることが性行動を慎重化させる』という研究結果が、ユネスコの国際セクシュアリティ教育ガイダンスなどに示されている」と指摘する。

 同法人によると、同法人の授業を受けた後、生徒からは「多くの間違った知識が出回っているので冷静に読み取り、判断していくことが大切だと分かった」(中3男子)、「大切な話が聞けてよかった」(中3女子)-といった声が上がった。

 アンケートで「今後、妊娠を希望しないときは必ず避妊が実行できる」と答えた生徒は、授業前の44%から授業後には67%に増加したという。

 厚生労働省の調査では、平成13年ごろから人工妊娠中絶の実施率は全年代で低下傾向にあるが、28年度には15~19歳の女性1千人当たり5・0件の中絶が行われた。東京都の小池百合子知事は4月27日の定例会見で、今回の議論について「教委や学校現場がどこまで何を教えるか、しっかりと対応策を考えていただくきっかけでもあると思う」と述べた。(5/15(火) 7:55配信)

 

 分相応。というか、親が正面切って教えきれないものを、他人の学校・教師が教えるべきなのか。それとも逆に他人だからこそ教えるべきなのか。まあ、高校生には教えるようになったのだから(高校生の○経験率を見るに当たり、行政もほっておけなくなったからだが。)、中学校でも教えて駄目だとは思わないが。中学生といってもたくさんの「個性」があるから、一部は、うまく良い方に転がり、一部は「興味本位」で事をなし・・・。教えなければ、後者がなかったのか、どうか。そこが、現場を悩ませる。

 教えた男子中学生の一つ上の姉が、高校進学後、1ヶ月で妊娠が発覚。結局、女生徒は退学。相手は、中学の同級生。双方の両親を交えての話し合いの末、お互いに二度と関わらない。男子生徒は、養育費として毎月「1万円」払うことになったそう。女生徒は、赤ん坊は専業主婦の母親に預け、1日働きづくめで手取り8万円。食費など家に預けて、手元にほとんど残らず、赤ん坊の物はほとんど買えないという。それでも、錯覚でも、好きな相手と・・・かと祈るような気持ちで聞いてみたら、「別に」。

 その程度の「思い」「好奇心」を学校の「授業」で、変えられるのか。私は「否」である。この女生徒の親は、前述した「ストーカー事件」の親である。負の連鎖の原因は、親にあるのではないか?

おかあさん。

       「おかあさん」。

 長生きしてください。なかなか言えない本音です。自分の母孝行は、自分の親以上にあなた方を気にかけてくれる「嫁さん」と一緒になれたことでしょう。僕があなた方の誕生日や年齢を忘れても、彼女が覚えて、プレゼントを真剣に考え、時間を作ってれる。今年の彼女の「手作りパンケーキ」どうでしたか。子供の頃、自分の「やり場の内怒り」を貴方にあたってしまいましたね。自分のいまなお残る後悔です。でも、そんな自分に、「あなたは、やれば出来る」と最後まで心の中で信じて、応援してくれた母。今の自分は、そんな「心」に相応しい息子だろうか。50を超えても、たまに、貴方に愚痴を言いに帰る僕・・・。今こそ、貴方の存在が愛おしく、大切に感じていることはありません。ありがとう。少しずつ、恩を返していきたい。だから、長生きしてください。あなたの息子は、明日も、だから頑張ります。生きていきます。ありがとう。おかあさん。

あなたは「買いますか」?宝くじ。夢か効率か。割の合わないギャンブルか。

    お金持ちが「宝くじ」を絶対に買わない4つの理由

 

 

宝くじは他人にお金を貢ぐのと同じ?

私の周りにいる30代前半から40代半ばの高所得の知人は、宝くじをまったく買いません。興味もないですし、話題にのぼることもありません。宝くじ売り場の行列を見て「バカじゃん。ほかにやることねえの?」とまで言う人もいます。その理由を、彼らの言動を元に、私なりに推測してみました。

そもそも当選確率が低いからお金のムダ

ジャンボ宝くじの当選確率は1000万分の1。下記コラムでは興味深い比喩が紹介されていて、「東京ドームの収容人数を4万5000人だとすると、東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」とのこと。これは気が遠くなりますね。交通事故に遭う確率より低く、買ってもほとんどがムダになることがわかります。「そもそも買わないと当たらないだろう」とも言われますが、買っても当たらないとしたら、300円の商品をわざわざ3000円払って買うわけですから(ジャンボの場合)、ちょっと滑稽な行為とも言えそうです。

胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない

宝くじの配当率は47%と、他のギャンブルと比較すると、還元率が非常に低く、買った人はなかなか儲かりにくいシステムと言えます。これに比べたら、FXはテラ銭が1ドル(120円)あたり0.4銭ですから、同じくギャンブル性が高いと言われるFXのほうが、よほど健全です。使いみちはともかく、これほど買い手に不利な商品を買う合理的な理由がない、ということですね。では、そのテラ銭はどこに行くかというと、基本的には地方自治体が潤う構造になっています。

もちろん、地方自治体は地元のためにお金を使うため、社会貢献をしたいという人向けの寄附行為とも言えそうです。その他にも、特殊法人と言われる日本宝くじ協会自治総合センター、宝くじ事務協議会などにもお金が落ちますが、天下り法人の可能性もあります。だとすると、宝くじを買うことで、他人の給料や退職金のために貢いでいる、と言えなくもありません。

時間のムダ

時間を投下するとは、人生の一部をそこに投下する行為であり、ひとつの投資とも言えます。では、宝くじの発売をチェックする時間、買いにいく時間、並ぶ時間、ロトやナンバーズなどで数字を選ぶ時間を考えたとき、いったいどういう投資的意義があるでしょうか。

おそらく、富裕層(引退した悠々自適の富裕層ではなく、現役のアクティブ富裕層)は、自分ではコントロールできないものに時間を使うのがもったいない、と感じます。そんなことをする時間があれば、やればやっただけリターンが見込める、ビジネスのことを考えたほうがよいということでしょう。

自分の努力や才覚に依存しない夢を見る必要がない

宝くじを買う行為を指して「夢を買うものだから、ゲームみたいなもの。当選確率とかはどうでもいい」と言われることもあります。しかしこれは、そんなことでしか夢を見る方法がないという、典型的なお金を稼げない人の発想のような印象を受けます。夢とは本来、自らの努力と才覚で叶えるものであって、棚からぼた餅を待つという行為ではないはず。それは夢というより「夢想」や「妄想」の類いでしょう。

おそらく、「普段は満たされない自尊心」「やり場のない不満」「自分の力で切り開くという努力は面倒くさい」「儲かる方法を具体的に考えるのも面倒くさい」という潜在的な逃げと受け身の発想が、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、そんな夢を見たいという欲望を起こさせるのかもしれません。

仮にそうだとしたら、富裕層が宝くじに興味がないことが腑に落ちます。彼らは、自らの行動が未来を作ることを本能的に悟っているので、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」という発想である、と言うでしょう。

もちろん、誰が何を買おうとそれは本人の自由ですから、他人の買い物やお金の使い道に干渉するつもりは毛頭ありません。なので、本コラムは宝くじを買うことの是非を論じているわけではなく、「自分はいったい何を信念にしているかが、日々の消費行動に現れる」ひとつの例としての紹介ですので、悪しからず。

宝くじは他人にお金を貢ぐのと同じ?

私の周りにいる30代前半から40代半ばの高所得の知人は、宝くじをまったく買いません。興味もないですし、話題にのぼることもありません。宝くじ売り場の行列を見て「バカじゃん。ほかにやることねえの?」とまで言う人もいます。その理由を、彼らの言動を元に、私なりに推測してみました。

そもそも当選確率が低いからお金のムダ

ジャンボ宝くじの当選確率は1000万分の1。下記コラムでは興味深い比喩が紹介されていて、「東京ドームの収容人数を4万5000人だとすると、東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」とのこと。これは気が遠くなりますね。交通事故に遭う確率より低く、買ってもほとんどがムダになることがわかります。「そもそも買わないと当たらないだろう」とも言われますが、買っても当たらないとしたら、300円の商品をわざわざ3000円払って買うわけですから(ジャンボの場合)、ちょっと滑稽な行為とも言えそうです。

胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない

宝くじの配当率は47%と、他のギャンブルと比較すると、還元率が非常に低く、買った人はなかなか儲かりにくいシステムと言えます。これに比べたら、FXはテラ銭が1ドル(120円)あたり0.4銭ですから、同じくギャンブル性が高いと言われるFXのほうが、よほど健全です。使いみちはともかく、これほど買い手に不利な商品を買う合理的な理由がない、ということですね。では、そのテラ銭はどこに行くかというと、基本的には地方自治体が潤う構造になっています。

もちろん、地方自治体は地元のためにお金を使うため、社会貢献をしたいという人向けの寄附行為とも言えそうです。その他にも、特殊法人と言われる日本宝くじ協会自治総合センター、宝くじ事務協議会などにもお金が落ちますが、天下り法人の可能性もあります。だとすると、宝くじを買うことで、他人の給料や退職金のために貢いでいる、と言えなくもありません。

時間のムダ

時間を投下するとは、人生の一部をそこに投下する行為であり、ひとつの投資とも言えます。では、宝くじの発売をチェックする時間、買いにいく時間、並ぶ時間、ロトやナンバーズなどで数字を選ぶ時間を考えたとき、いったいどういう投資的意義があるでしょうか。

おそらく、、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ。「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ。自分ではコントロールできないものに時間を使うのがもったいない、」と感じます。そんなことをする時間があれば、やればやっただけリターンが見込める、ビジネスのことを考えたほうがよいということでしょう。

自分の努力や才覚に依存しない夢を見る必要がない

宝くじを買う行為を指して「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、だから、ゲームみたいなもの。当選確率とかはどうでもいい」と言われることもあります。しかしこれは、そんなことでしか夢を見る方法がないという、典型的なお金を稼げない人の発想のような印象を受けます。夢とは本来、自らの努力と才覚で叶えるものであって、棚からぼた餅を待つという行為ではないはず。それは夢というより「夢想」や「妄想」の類いでしょう。

おそらく、「普段は満たされない自尊心」「やり場のない不満」「自分の力で切り開くという努力は面倒くさい」「儲かる方法を具体的に考えるのも面倒くさい」という潜在的な逃げと受け身の発想が、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、そんな夢を見たいという欲望を起こさせるのかもしれません。

仮にそうだとしたら、富裕層が宝くじに興味がないことが腑に落ちます。彼らは、自らの行動が未来を作ることを本能的に悟っているので、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」という発想である、と言うでしょう。

もちろん、誰が何を買おうとそれは本人の自由ですから、他人の買い物やお金の使い道に干渉するつもりは毛頭ありません。なので、本コラムは宝くじを買うことの是非を論じているわけではなく、「自分はいったい何を信念にしているかが、日々の消費行動に現れる」ひとつの例としての紹介ですので、悪しからず。

(©株式会社オールアバウト)

 

 まあ、宝くじの確率の悪さは、昔から言われていた。ギャンブルの中での確率論。意外と、競馬→パチンコ→宝くじと言われてきた。東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」と言われると「ほへ~」となるが。

 並ぶ時間?あまり並ばない所に行くし。、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、というより、「失敗」できないし。

 かくいう自分も、40代になるまで買わなかった。まわりが「夢を買う」と言いながら、「宝くじ」の話をしていても「ふ~ん」、てな感じだったが。もちろん「胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない」のは百も承知だった、自分が、「たま~に」買うようになったのは、まず、ロト6で同僚が夫婦併せて100万円当たって、仕事を休み海外旅行に行ったこと。旦那は、嫁さんと買い物で待ち合わせ。暇で人生初めてのパチンコ。やはりというか、なんとというか、ビギナーズラック。4円20連、10万円超の儲け。妻に話し、ふらでこれまた初めてのロト6。じいちゃんばあちゃんの誕生日含め、「適当」にやったら、なんと、前述の大当たり。「いいなあ~」。自分も、少しやってみた。全く当たらず。次の職場。つぶれそうな寿司屋の息子。最近、店を「建て直し」。大きく改築。それが「大当たり」で、うはうは状態。で、ある時、その息子に聞いてみた。・・・息子は臆面もなくばらした。「宝くじ1億円当たって、そのお金で・・・」。すぐ、その息子に忠言した。「そういう話は、周囲にしないほうがいいぞ。」と。それからである。まあ当たらないだろうが、買わなくては「1パーセント」も当たらない。夢すら見れない。まあ、、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」と言われれば、そうなんだけど・・・となるが。多くの家庭人は、投資などで失敗は出来なのですよ、と。まあ、合理的ではないけれど。富裕層が宝くじに興味がないのは、まあ、それだけ「お金がありあまり」興味がないという、うらやましい状態なんだろう。まあ、宝くじ1億円が当たったら→貯金+妻と海外旅行。3億円なら、3000万円くらいで家を建て、1度きり妻ともう一度、新婚旅行で言ったイタリアへ。あとは、3000万くらいで家を建て、あとは貯金。もちろん、年齢が許せば、働く。まあ、生活できて、自分で自分をセーブ出来るなら・・・・働きたくないなあ、正直。だって、体力衰えても、人間関係で患い、疲れたくないもの。無理して働きたくはないなあ。

 多くの「サラリーマン」の人達は、宝くじを「買うのだろうか」「買わないのだろうか」。

104歳豪科学者、スイスの専用診療所で安楽死

         「これ以上生きたくない」!

 】「これ以上生きたくない」と主張していた104歳のオーストラリア最高齢の科学者が10日、スイス北部バーゼル郊外の安楽死用診療所で、致死量の鎮静麻酔薬の注射を受け、亡くなった。

 この科学者が会員となっていた豪安楽死推進団体「エグジット・インターナショナル」の医師がツイッターで明らかにした。

 安楽死したのは、豪西部パースのエディスコーワン大学名誉研究員の植物生態学者デビッド・グドール氏。重い病気はなかったが、ここ数年、視力低下など体の衰えが進んで「生活の質」(QOL)の低下を感じ、「生きたくない」「野外調査に出られない」と周囲に漏らしていた。

 オーストラリアでは現在、安楽死が認められていないため、安楽死を含む自殺ほう助が合法化されているスイスに今月初めに渡った。地元メディアによると、グドール氏の希望を受け、安楽死の処置中には「歓喜の歌」で知られるベートーベンの交響曲第9番の演奏を流し、曲が終わる頃に息を引き取ったという。死の直前には「やったことに決して満足はしていないが、最善を尽くした」との言葉をのこしたという。

2018年05月11日 13時19分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
 
 今まで、自ら死を選ぶ、つまり「自殺」はいけない、とブログ等で書いてきたし、心の変遷を経て、そう思うようになってきた。「命は自分の物であるが、自分だけの物ではない」という考えに至った。・・・が、果たして、そうか、と最近思う。
 末期癌。いろんな施術を経て、たくさんの管につながり、意思表示もできなくなり、そうなると、延命措置の拒否すら、この国では認められない。そして、莫大な医療費を延々支払うことになる。癌だけでなく、治癒が不可能な難病を抱え、必死に行き、行き着く果ては、同様のことに。そうなるまえに出来ることは、自ら死を選ぶことぐらいだが、病によっては、死ぬための体力・筋力も衰え、自ら決断すら出来なくなることもある。誰もが思う。長生きはしたいが、周囲に迷惑をかけたり、自分が自分でなくなるようなら、そんな「生」は嫌だ、と。その時が、苦しまず、自分が決断できるうちに、死ねたなら、と。それが、年を重ねた者の想いなのかもしれない。
 この国は、しかしながら、そんな「死に様」を許さない。だから、将来に、不安になり、そして、現実も、年金や生活保護等の社会保険は削られ、生きても地獄、死ぬ間際も地獄、の苦しみを考え、不安になるのである。
 この記事を見て思う。どうして「安楽死」をこの国は認めないのだろう。それは、果たして、誰のためなのだろう。今、不安で苦しんでいる人の事を本当に考えているのだろうか。今、不安でもなく、苦しくもない人が考えた法律が、果たして正しいのだろうか。自分の人生、いろんな決め方が許されてもいいのではないだろうか。

 

週刊誌へのタレコミは「公益通報に当たらず」政府が答弁書

~これが「権力者の本来の姿・心」。信頼できないからこそ「第3者」なのに。

 政府は11日の持ち回り閣議で、テレビ朝日の女性記者が福田淳一前財務事務次官から受けたセクハラ被害の情報を週刊新潮に提供したことついて「公益通報には当たらない」とする答弁書を決定した。 公益通報制度は、企業の社員や官庁の職員らが内部の不正や犯罪行為を告発しても、解雇や降格などの不利益な扱いを受けないよう、通報者を守る制度だ。通報先は勤務先や監督する行政機関、報道機関などがある。政府は、今回のケースは要件を満たさないと判断した。

(産経ニユース 2018.5.11 19:28更新

 

 だいたい「権力者」が自分の既得権益を失う判断をするわけがない。今回の「セクハラ騒動」は、ともかく、労働者の不利益、会社の不法行為に対する「公益通報」が、週刊誌らの第三者への通報が「公益通報」にあたらない、とする判断に対し、労働者は、もっと強く抗議しないと。会社の「不正・不当」を訴えるのに(自身の不利益がある理由で)、それまで声をあげなかった「管理職・上級職」の人らに訴えて、何か事態が好転するか、するわけがない。それなら、今や「マスゴミ」に成り下がった「新聞・週刊誌」らマスコミに情報を伝える、まだ、このほうが「公益通報」の趣旨に則る、普通はこう考える。それを、情報を週刊新潮に提供したことついて「公益通報には当たらない」とする政府は、あまりにも「陳腐」で、歴代の政府に比べて「思慮浅く」、視野が狭いと言わざる得ない。実際、このような行為をしなければならない場面で、どれくらい「公益通報制度は、企業の社員や官庁の職員らが内部の不正や犯罪行為を告発しても、解雇や降格などの不利益な扱いを受けないよう、通報者を守る」制度の趣旨が守られているのだろう。それが「怪しいから」報道機関に頼るのだ。

 正しく、「公益通報制度は、企業の社員や官庁の職員らが内部の不正や犯罪行為を告発しても、解雇や降格などの不利益な扱いを受けないよう、通報者を守る制度だ。通報先は勤務先や監督する行政機関、報道機関などがある。」という、法の趣旨を守らなければ、世の悪習は決して改善されない。労働者が安心して「生活」し「やりがい」を持ち働く世の中はできないだろう。国民や市民と、これだけ乖離する言葉を発する政権は、そうそうなかった。・・・試されているのは、まさしく我々のような気がする。

 

変わる価値観。麻生大臣「セクハラ罪」炎上。加計「忖度」問題。体罰問題。今と昔どちらの社会がいいか?

 

~麻生財務相「セクハラ罪ない」。体罰処罰。加計問題。

     〈変わる価値観。どちらが良かったか?〉

 

 変わる価値観、社会の未来図。はたしてどちらがよかったのだろうか。

 「セクハラ罪はない」との問題発言で火ダルマになっている麻生財務相。7日には東京・霞が関財務省前や札幌市など全国5カ所で辞任を求める抗議行動が行われたにもかかわらず、8日の閣議後会見でも「セクハラ罪っていう罪はないという事実を申し上げている」と繰り返して問題になっている。ここで、我が家の夫婦の話。妻が言うのである。「これって、私が20代なら、問題にならないっていうか。流しているっていうか。悪くないっていうのじゃなく。今の20代、30代と50代60代では全く生きている感じが違う。。私達の時は、よく言えば笑って流す(そして「相手」にしない)。悪く言えば、諦め。今は、当時者でない人も騒ぐ。というより、当事者でない人が騒ぐ。それに、おじさんたちはついていけないんじゃないだろうか。」。一人の女性の言葉である。(ある意味、おじさんたちをいじめているだけ?)

 加計学園問題=忖度問題=コネ?だって、普通にたぶん世の中にあり、それが「自分」にあたわらないことに「不公平感・不満」を感じながらも、「自分は自分」を半分あきらめ、どこかで、自分にも「あたわったらいいなあ」と妄想しつつ、生きていた。まあ、安部総理は「あからさますぎる」が。

 隠れていたものがあきらかになったのは、間違いなく悪いことではないだろう。ただ、それが世の中・社会を暮らしやすくするのとは、繋がらなかったということか。

 ある新聞で、道内の体罰で処罰された教師の数が報道された。ある教師の話。授業中、不振な動きをした生徒の側に行くと、マンガを見ている。取り上げて、それこそ軽く頭を、その本で「たたき」、その後、収まらず、学級全員の前で「どなる」。これは、「体罰」になりうる。その妻は夫に言ったそう。「ばからしいことしなさんな。分からないんだから。それで損する。仮に、その子は納得して、親も了解しても、周囲の「関係ない」誰かが、アンケートに書いたらジ・エンド。生活に支障がでる。駄目教師で良いんだよ。」。その後、その生徒は公園や教室で女生徒と抱き合ったり、○○したり。担任は、同様なこと自分の後ろでおこなれても見えない、見ない。自称、俺みたいな教師いない、と自画自賛。まあ・・・その件は問題にしなかったのだから、結果よしか。

 子を持つ親として、10数年前と今と比べて、(セクハラ云々の騒がしい今含め)、どちらが良い社会であったか。親としては、断然、10数年前である。非効率であっても、先行序列社会=終身雇用社会であり、賃金の不公平はありながらも、年齢相応に、その不条理に我慢・適応していけば暮らしていける、「総中流社会」だったのだから。今はどうか、下手すれば、50歳で年収300万。派遣社員。退職金なし。新自由社会。つまり、富める物はさらにとみ、貧しい者はいつまでも貧しく。・・・政治は、そうした社会を先導しながら、弱気もの対策を声高々に叫び、・・・何も変わらず。他者を許容できなくなりつつある現社会。未来を語れた社会はいずれか。

 そんな社会の変容が、教育現場にも、無力感を生み、勘違い教師をも作る。生徒はそんな教師を見、親を見、新たな虚無を見つめる。そこに未来の幸せはない。

 次回はそんな現場の、ある「ストーカー事件」から見る教育現場の「闇」を考えてみたい。