東京芸大がミスコンを中止 「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」。人間の根源の感情の発露を否定するな。

~杓子定規から生まれる閉塞感。「別にいいじゃん」。自然の感情の発露ではないか。

上旬に開かれる東京芸術大学の学園祭「藝祭」で開催予定だった「裏ミス藝大」が中止されることが明らかになった。藝祭実行委員会が6月21日、学生課を通して学生全員宛にメールを送り、中止を決めた経緯を説明した。

藝祭には、「ミス」と「裏ミス」のコンテストがある

藝祭では、「ミス藝大」と「裏ミス藝大」の両方が開催される予定だった。「ミス藝大」は毎年開かれている名物企画で、通常の「ミスコン」のような女性の見た目などを評価するコンテストとは違い、男女問わず参加でき、モデル、美術、音楽でチームを組み「ミス藝大」という作品をつくることで「美」を追求するというのが狙い。作品は人ですらない場合もある。
藝祭実行委員会のTwitterでは「藝祭のミスコンは一般的な大学のように容姿だけでは判断しません。毎年テーマを設定し(設定しない年もあり)、出場者およびチームがそのテーマをそれぞれの解釈で表現します。その中で魅力的なものを皆さんに投票で選んで頂き、グランプリ等が決定します」と説明されている。
対して、今回中止が決まった「裏ミス藝大」は、通常の女性の容姿やふるまいなどを評価する、いわゆる従来型の「ミスコン」を見たいという学生の要望に応え、今年企画されたものだったようだ。

「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」

以下、「裏ミス藝大」の中止を知らせるメールだ。

  本企画の開催が中止となった経緯をご説明いたします。
本企画についてのメールを送らせていただいた後、様々な意見をいただきました。
賛成や出場を希望される意見も多数ございましたが、本企画に対し、懸念を示された方もいらっしゃいました。 本企画の参加資格が女子学生のみであること、また、外見から人の内面や人自身を判断するということが、「女性は美しくあるべき」というような、強迫的な観念をもたらしてしまうこと、そして、様々な価値観を持つ学生が集まり、芸術を学ぶ藝大という場において、このような企画が催されることに対して、強い危機感を持っていらっしゃいました。このような経緯を経て、意見をくださった方々とイベント課、企画課を交え、内的な意見交換会を行いました。そして、交換会において、本企画の発案のきっかけとなった、「ミス藝大」企画に関する意見ポスターについての言及もありました。 意見ポスターには、今まで通り「ミス藝大」を続けてほしいとの意見もございましたが、反対に、「普通の」ミスコンが見たいという旨を、女性に対するハラスメント的な言葉遣いで書かれているものもございました。
上記のような意見が学生の声として正式に受け入れられるとは思わなかった、という声をいただき、意見を取り入れ、企画してしまったことを浅はかであったと痛感いたしました。(井土亜梨沙/ハフポスト日本版)

 

 差別・区別・セクハラ・・・。そういう価値観は、総じて正しい。しかし、正しさと面白さとか夢とか開放感とか、そういう無形の心の内は、相反する事が多い。

 例えば、日本を代表する文学者の川端・漱石・芥川・太宰他、日本の文化の一端を今なお担っている人達は、私生活では、幾多の失敗を重ね、それが結果、人々の心の潤いを作ってきた。人間の一生は、総じて無駄の中に、一筋の結晶・光が生まれ、尊んできた、その積み重ねである。・・・なんて、かっこつけたが、要は、「別にいいじゃん」という思うだけなのである。別に「容姿をたたえる会」があってもいいし、(実際、対象が女性だから問題になるが、男性でそれをしても、あまり問題にならないだろう。)、そこが問題になるのは、別の問題が、その人達の心理の中にあるからなのではないか、とも思うのである。主催者が、それに対して、闘うだけのモチベーションも論理もないから(まあ、もともと「遊び」なのだから)、謝って、そして無くなって終わりなのだが。世の中に、いわゆる「美男子」「美女」と称する人は、間違いなくいるし、まあ、自分には縁がないなあ、と思うので、別にいいし。

 だって、いわゆる芸能界だって、歌とか芸という基準ではなく、容姿が半分以上で選ぶようになってどれくらいたつのだろう。それが飽きたので、今は、普通っぽい人がうけているようだが。

 今回の「裏ミス」だって、本当に、みんなが「嫌」なら、参加する女性だってないはずだし。

 そういうのも「いいなあ」というのも一つの価値観。そういうのは嫌だというのも一つの価値観。どちらが良いとか悪いとか、ではないだろう。「価値観」の問題なんだから。まあ、セクハラとは根が違うだろう。(それだって、醜悪なものは論外だが、○○はかわいいなあ、もセクハラと叫ばれる昨今、世の中に潤いがなくっていると感じてしまうのは、やはり、年をとったか。)

 世の中には、男と女しかいないのだから、もう少し上手につきあって行ければいいのに、とも思うのだ。「外見から人の内面や人自身を判断するということが、「女性は美しくあるべき」というような、強迫的な観念をもたらしてしまうこと」、そんな難しい話で、日々生きていないし。「かっこいいなあ」「いい男」「かわいいなあ」「きれいだなあ」。それは、人類の根源とも言うべき素直な感情の発露ではないか。それを否定して、何が楽しいか。まあ・・・自分は、それに当てはまるとは一度も思ったことはないが。その根源が・・・・嫉妬、と書いたら、怒られるだろうか。無意識の嫉妬。それも、人類の根源の感情の発露であるのは間違いない。

 

 

高等教育無償化 中所得層は置き去りか

~税は公平にが原則。どこまで情を入れて良いか。見えない「不公平」。

 ない学生も多い。逆差別を招かない制度の設計を求めたい。

 家庭が貧しく、高等教育の機会に恵まれなかった子どもも、また貧しくなる。負の連鎖を断ち切るために、国は低所得層に対し、大学や短大、専門学校などに要する費用の負担を軽くする制度の枠組みを決めた。

 住民税非課税世帯とそれに準じる年収三百八十万円未満までの世帯を対象に、授業料や入学金の学費と生活費を支える。すべて返済不要だ。消費税の増税分を使い、二〇二〇年度から実施するという。

 近年、大学・大学院卒と高校卒の学歴の違いは、およそ七千五百万円の生涯賃金の格差となって跳ね返るという。教育水準の底上げは、学び手本人はもちろん、社会全体の利益の向上に結びつく。

 大学に進学する場合、国公立か私立か、自宅から通うか下宿するかなどの条件で費用は変わる。

 非課税世帯については、子ども一人あたり年間百万円から二百万円ぐらいの支給を視野に入れての議論になるのではないか。その上で、段階的に金額を引き下げながら、年収三百八十万円未満までの世帯を支援する設計となる。

 限りある財源を、低所得層に優先的にふり向ける考え方はうなずける。けれども、高等教育費の負担は中所得層にとっても重く、少子化の圧力にもなっている。

 国の奨学金事業を担う日本学生支援機構の一六年度調査では、大学生のほぼ二人に一人は奨学金を利用し、そのうち七割余は年収四百万円以上の家庭の出身だ。在学中はアルバイトに時間を割き、借金を抱えて社会に出る人も多い。

 たとえば、子どもの人数や要介護者の有無、資産の多寡といった個々の家庭の事情を度外視した仕組みが公平といえるか。少しの収入差で対象から外れる世帯や高校を出て働く人が納得できるか。

 親が学費を賄うべきだとする旧来の発想に立つ限りは、こうした疑問は拭えないだろう。

 自民党教育再生実行本部は、国が学費を立て替え、学生が卒業後の支払い能力に応じて返す出世払い制度の導入を唱える。オーストラリアが採用している。学び手本人が学費を賄う仕組みは一案だ。 もっとも、高等教育の恩恵に浴する国がもっと公費を投じ、私費負担を抑える知恵がほしい。慎重かつ丁寧な議論を重ねたい。

中日新聞 2018年6月22日)

 子育て世代ということで言わせてもらえば、低所得者への「進学費用の負担」は、税の「公平性」という意味で、「違憲」でさえあるかもしれない。親の所得=学歴差という社会現象は、「新自由主義」を標榜した「安倍自民党」が進めてきた施策の結果である。話はそれるが、生活科や総合という科目は、習熟度学習=出来る子をさらに伸ばす、という陰の目標があり、その逆バネの受け皿として、「そうでない子は、生活力や社会性、遊び」の中で、違う生きる力を、と考えらてきたものだ。その結果として、社会の格差、経済力の格差の負の連鎖が問題になったのに、「今更」感がありありだ。

 それはさておき、どの家庭も子供の進学費では頭を悩ます。子供の進学費=老後に残る自分達の生活費だからである。子供の夢を叶えさせてあげたい。でも、出せる金には限りがある。学費を出したあと、自分たちに、どれだけのお金が残り、どんな生活が待っているか。・・・不安で仕方がないのである。そんな気持ちでいるなか、「低所得者への学費全額負担」とか、気持ちが逆なでさせられる人もいないわけはない。税金をきちんとおさめ、そして、貯金を取り崩し、やっと子育てしているのに、生活保護を受け、それに、学費もか、と考えるのは、心が卑しいか・・・と考えて、声を出せないだけである。身近には、生活保護費をもらうため、偽装離婚し、市営住宅の新築に住み、高級外車を乗る輩、子供の部活動のシューズを、周囲の「普通に過ごす」子供達の何倍も高い値段のものを買い与え、その子供が嬉々と見せびらかす姿。給食費を3年間一銭も払わずパチンコに明け暮れる母親。その人達にも、である、支援するのでは、逆不公平であろう。国は、それをきちんと調べられるのか、その方策を考えているのか。まずは、そこを解決してもらいたい。大学や短大、専門学校などに要する費用に四苦八苦しているのは、一部の国民・市民だけではない。税金は、公平に使われるべきだし、払った対価を国民に与えるべきだ。そうでなければ、暴動が起きても、国は文句は言えない。本当は。娘が「医者になりたい」と勉強している。自分たちの預貯金を計算し、奨学金の返済金・返済年度・その時の親子の年齢を考え、暗い気持ちになる。経済×学歴×夢なら、国民みんなに平等に与えた欲しい。チャンスを。親の経済=少子化の解決策というなら、それが本筋だろう。

 

「やめればいいんじゃない?そんな人」をもう少し話したい。

「教育現場はもはや聖職、特別(職)ではない。サービス業。ただ「心」はなければ。」

 最近つぶやいた「twitter」が意外な程の反響があった事に正直驚いている。それは、いわば身内にも外野にも同様に。身内(同業)には、「・・・」。まあ、いろいろは人がいる。きっかけは、こういう教育実習生(真偽はわからないが)のつぶやきである。

「①朝が超早くて夜も遅い。働いても働いても仕事が終わらない。②紙の無駄遣いが酷い。③おしゃべりな人が多い。④職員室が五月蠅すぎて、あれじゃ仕事にならない。⑤暗くなるまで部活やりすぎ。⑥先生自身が意味のない仕事を増やしている。

 〈結論〉教員になるのやめまーす」

 それに対して「やめればいいんじゃない?そんな人。働き方の問題はいろいろあるけれど。そんなことしか見えない人は教師にならない方がいい。」とつぶやいたのである。「そんな」の使い方には反省はしているが・・・。

 もう少し、補足してみたくなった。それこそ「意味のない」事だが。

 まず、①と⑤は、その通り。それが現実。だが、この人が仕事が終わらないと嘆く、その後、この人の「駄目だし」された教師は、やっと自分の仕事をするのである。だから、採用試験を受けないと分かっている実習生は、本心では「迷惑」かもしれない。だから、今回の私の担当の「実習生」には聞いたのである。「試験、受けるの?」と。そして、「本音で教えるけど、僕がどれほど真剣に貴方の指導をしても、僕の給料も増えないし、地位も評価もあがらない。だから、中途半端にやるのなら、最初から言って欲しい。それなりに(困らないように)「終わらしてあげる」から。「貴方が全力で学びたいのなら、僕も全力で教える。まあ、きつくなるけどお互いに。」と。その時の感じと大きな差がありすぎて、おもわずつぶやいた。②は、教師に、節約の意識が総じて低いのもあるし、使える時間の制約がありすぎて(時間がとにかくないし、あっても生徒指導や急な書類作成でなくなる場合も多い)、とにかく急ぐ。余裕もない。それに慣れてしまっている。そんな背景もあるのだ。

⑤もその通り。現場には、部活をやりたくてしかたがない教師も多数いて、そうじゃない人もいるが、管理職も、やりたがり教師が占める中、組織はそちらに傾く。教育委員会のお達しなど、管理職が無視するし、しないと親の対応等自分の仕事を増やすので、旧態依然。④も、まあ、どこのそんな快適な職場環境など、一流企業しか保証されないのじゃないか。教育現場は、間違っても一流企業ではない。

⑥について。生徒指導、保護者対応、生徒との触れあい、極めて無駄が多く、しかし、その無駄の中から、「何か」を生み出そうとするのが、教師の仕事なのである。特に生徒の指導・支援・ふれあいは、踏み込みすぎても駄目だし、遠すぎても駄目。無駄の中に、心をつかむ鍵があることがある。まあ、その為に失敗する教師も多いが。だから、それを「無駄」と断じてしまう、この人は、教師に向いていないのである。この人の善し悪しを「つぶやいた」のではないのである。選べるのだから、向いていない職業に無理して就くことはないと思っただけである。でも、向いていない職業の中、必死で毎日頑張っている、多くの人は。

 教師という職業は、今や「サービス業」そのものなのだ。世の中のサービス業を考えてみれば、今の「教育現場」の不条理もわかるだろう。夜の19:00に「居酒屋」が閉まれば、たまあにの「息抜き」の外酒が飲めなくなる。そんな感じだ。

 そういう仕事を、求めている。国や県や市や町という行政は。だから、文句を言うなら、一教員や教育現場にではなく、そういう行政や法律を司る人達へ訴求しないと、変わらない。ただ、サービス業であっても、そこに「無駄」を承知で楽しめないと、希望や夢を語れないと、他人様の「児童・生徒」をあずかれないだろう。担任を必死でして、保護者対応、生徒指導、いじめ対応、部活のもめ事を抱えることになっても、それを仮にうまく解決でき、そんな力を持っても、「給料」は、そうでない人と変わらないのである。仕事の「無駄」である。(最近、担任をしたがらない教師が増えてるのも、そんな事情からなのだ。)

 教育実習は、所詮、実習で、体験入部みたいなもの。その中身は、大概、周囲の担当教諭が地ならしして、受け持たせる。だから、「感動する」。まあ、偽物なのだ。ただ、偽物の感動も、時として、その後の彼・彼女の「拠り所」となる。「夢」くらいあってもいいじゃないか。そう思い、周囲は手助けする。自分が疲弊しても。逆に、この人の場合(本当に教育実習生だとしたらだが)、そんな思いをさせた周囲のレベルが「?」で、可哀想だったのかも知れない。でも、そんな人もたくさんいるのだ。この世界。でも、それは教師に限った事ではないのじゃないか。いろんな人がいるのである。世の中には。だから、疲弊するし、やりきれない。生きるのは・・・大変なのだ。

 

日本化学会がPV削除 教授と学生の「恋愛」ストーリーで「女性軽視」?

~そんなことぐらいでうだうだ言うな!夢ぐらいいいだろう?

 

国内最大の化学学会「日本化学会」(東京都千代田区)は2018年6月11日、YouTubeなどで公開していたプロモーションビデオ(PV)を削除した。動画の内容に、複数の会員から「不適切ではないか」との指摘が寄せられたためだ。

削除されたPVは、既婚者の男性教授に恋心を抱く女子大生が主人公。彼女が教授への恋愛感情を募らせていく様が描かれたストーリーに、ツイッターなどで「化学を専攻する学生を馬鹿にしすぎ」といった反発が広がっていた。

「今から始まるケミカルストーリー」

問題視された動画は4月17日、学会公式サイトやYouTube上で公開された。同学会が初めて制作したPVで、タイトルは「日本化学会オリジナルムービー」。動画の説明欄には、次のようなあらすじが記されていた。

「主人公は化学に恋する女子大生ユナ。 大学3年生の彼女は、化学のことで頭がいっぱい。 そんなある日、彼女の心を揺さぶる運命的な出会いが訪れる。ユナの日常はクロムメッキのように光り輝き始め、その未来はセシウム時計のように揺るがないはずだった。あの一言を聞くまでは...」

こうした説明文が示すように、今回のPVは全体としてコメディ調だった。

まず冒頭では、パンをくわえた主人公のユナが、以前から憧れの対象だったという男性教授・日野と正面から衝突するシーンがある。その後、日本化学会に入会したユナは、学会で活躍する日野の姿を見て彼への恋心を深めていく。

だが、後に日野が既婚者で子持ちだということが判明。さらには、日野が同級生と「不倫」をしているという噂まで浮上するなど、ストーリーは急展開を見せていく。最終的には、紆余曲折を経て見つめ合うユナと日野の姿をバックに、

「今から始まるケミカルストーリー」

というテロップが表示され、どこか含みを持たせるような形でPVは終わる。

このように、女子大生と大学教授の恋愛模様を描いたストーリーに、疑問や違和感を覚えた人は少なくなかったようだ。ツイッター上では、PVの公開から1か月以上が経った6月9日頃からその内容に大きな注目が集まり、

「女性が科学者を志すのは『科学への興味・探求心』があるからで、男性科学者への恋愛感情なんかじゃない」
「この女学生を、女先生に憧れを抱く男子学生に置き換えても、日本化学会は変だと感じないのだろうか」
「これ、ちゃんと監修したん?上の方々は女子学生にこういう印象を持ってるのだろうかと邪推してしまう」

といった否定的な意見が次々と書き込まれる騒ぎとなった。

差別の意図は「全くございません」

その後、日本化学会は11日朝に問題視されたPV動画を公開停止とした。同学会の広報担当者は、J-CASTニュースの取材に対し、

「複数の会員から『表現が不適切ではないか』『化学会が出すPVの内容としてふさわしくないのではないか』との指摘があり、動画を削除することを決定しました。当会でも、(動画の内容に)問題があったと認識しています」

と説明した。

一部のネットユーザーから「女性を軽視しているのでは」といった指摘も出ている点について聞くと、担当者は「そういった意図は全くございません」。その上で、今回のようなストーリーの動画を制作した意図について、

「学生など化学の研究に携わる若い方が、動画のターゲットでした。そうした若い人たちにも、日本化学会へと興味を持って貰いたく、柔らかくソフトな内容のプロモーションビデオを制作しました」としていた。

(2018年06月11日 13時56分 J-CASTニュース

 

 日本の閉塞感がよくわかるこのてのニュース。誰かをたたいて安心する。たたかれた方は、面倒くさいから「謝って」、訂正・削除する。その繰り返し。心がないんだな。

 一言、いいんじゃない、それぐらい。ユーモアがあって。だって、「あり得ないんだから」。それぐらい、年寄りだろうがおじさんだろうが「夢」があってもいいんじゃねえ。それをセクハラだとか、「女性蔑視」だとか、場合によっては、その心理は「上から目線」?。複数の会員から『表現が不適切ではないか』とかの質問だって、所詮、少数意見なんだ。絶対。「うるせい、それぐらいの遊び心がなくて、なにが商売だ!」と怒鳴りたいところだが、そうすると、まあややこしくなる。その労力を考えると「謝ろうと」。それが、結局、こんな息苦しい閉塞感を生んでいるのに、気づかない。両者とも「息苦しく」なっているのに。

 最近の我が国は、ふところ、や優しさ、余裕、といったものがなくなっているんじゃないのかなあ。それは、誰かを叩いて嬉々とする言論に、その根があるんだ、実は。

 行為は厳に慎まなければいけないが、恋ぐらいしてもいいだろう、心の中で。SNSで批判しまくっている若者含め人達。夢、見ているかい?と言いたい。夢で食べてはいけない。が、たまに、夢ぐらい見ないと「やってけねえ」。それが、万民の正直な気持ちではないかな?「女性が科学者を志すのは『科学への興味・探求心』があるからで、男性科学者への恋愛感情なんかじゃない」
「この女学生を、女先生に憧れを抱く男子学生に置き換えても、日本化学会は変だと感じないのだろうか」なんて、このコミカルな動画にいちゃもんつける男性女性の人達。恋愛したことある?恋は理屈じゃないんだ。別に、それが「あり得ても」「あり得なくても」、どうでもいいんじゃない?あんたに関係ないし。関係ないことを、正論ぶる人達の気持ちこそ、ある意味、気持ち悪い。もっと、のんびりやろう。

教育実習生の指導を終えて。真子先生。評価は「10」だよ!

~今日は書きたいことを。伝わらない「想い」、を耐えるのが教育なのだ。

 今日で教育実習生の指導を終える。書きたいことを書きたい。本当に、教育業はボランティアなのだなあ、と思いつつ過ごした3週間のこと。

 相手は、石狩市(本校は札幌市、札幌駅の近くにある。)石狩市の唯一の女子大の学生、真子さん。私の学校の卒業生である。その当時は、窓も荒れ、授業も成り立たない、1学年400人強、全校生徒1000人を超えるマンモス校の時代の生徒らしい。「らしい」というのは、自分は教師であり、本校とは、それ以外の何にも関係はなく、彼女も知らないから。

 ちなみに、一昔は、教育実習は、大学の教官が、生徒の話を聞き、居住区や出身地やら、色々考えて、実習校を決め、斡旋したものだが、今は、大学病院の医学部と同じく、教授に力無く、学生本人が、その場所を決め、許可を得なければならない。したがって、昔、どんな生活をいようとも、自分の「母校」に連絡をとる。

 ところが、昔から行われている教育実習が100パーセント、学校側のボランティアだつた。自分の仕事をひとまずおいといて、学生の指導に全力を傾け、学生が帰る21:00頃から自分の本来業務をする。それが「当たり前」であり、自分らもそうされてきたという気持ちで頑張った。・・・今は、断ることも普通。それだけ、現場には息をつく隙間がない。だから、大学側には、なんの武器もなく、学生が自分で探して決める。それができないなら、教育実習はあきらめる。そんな時代である。だから、許可しても、指導教諭は別に、熱も入らない。入れる必要のもない。そんな気分が蔓延する。いわば「迷惑」そのもの。・・・そんな教育実習の3週間が終わったのである。

 さて、そんな自分は、今回、どんな気持ちで臨んだのか。一言「へとへと」である。

50の声を聞き、実習生の指導も最後かな?との思いもあり、「気持ち」があれば、すべての引きだしを開けて紹介しよう、幾多の「法則」を。とも思ったのだ。・・・なんて「優しい」。俺も年をとったなあ。

 「発問と指示」の違い。視線の偏り、当てるときの間合いに込める優しさ、机間巡視

の意図とレベル別の指導の準備、など、今までで一番丁寧に教えた。だって一応やる気があるようだから。

「教員採用試験受けるの?」「はい」「受けないのだったら正直に。授業は教授がくる週の2,3回で。子供は実験台じゃないから。」「受けます。」「なら、真剣に、全力で。それがあれば、こっちも真剣にするけど。そうでなければ、ね。」「頑張ります」。「まず、僕の授業を観察し、同じような方法で追試してもらう。そして、それを次ぎの単元でアレンジし、最後の週だが・・・・おなじ説明文的文章をやるか、全然違う「短歌」をするか。・・・」「やらせて頂けるなら、全然違う単元の短歌もやってみたいです。」・・・ほお~やる気はある?それが始まりである。

 しかし、その私大の彼女。思ったより「学力」がない。空き時間の50分から100分を使い、その後、17:00や18:00~1時間ほど使い、発問や指示、言葉使いの指導・・・。20:00を過ぎ、それから自分の仕事を行い、くたくたである。

 それでも、一生懸命な子であった。ノートを見ると、反省やら指導されたことやら明日への課題やら、メモ書きがびっしりである。容姿端麗というほどでもなく、愛嬌があるわけでもなく、固い頭・表情・・・でも、笑顔は、いけるのである。第一の指導は「笑顔はいいよ。そこは「武器」」。あるとき、卒論の準備があるとかで、その日の指導案が出ない。研究授業本番の指導案も「雑」。その日の18;00までと改めて期限を決めたが、出ない。「僕、帰るから。いいんだね。」「私、全然大丈夫です。今行きます。」・・・何が大丈夫なのか?心がない。そこで、言った。

「授業はさせられないわ。」「気分が悪い」。指導案も、「先生、指導案。」と突き出す。「あなたは、卒論も教授に、これ、って突き出す?」「そして、卒論の・・・は貴方の都合。子供は実験台ではない。」「普通はさせてもらってるのだから、前日までには点検を受けるのがマナー。」「言葉が悪いが・・・舐めている?」。その子は、「申し訳ありません」と誤るが響いてこない。まあ、いいか。と。でも、あと数日だし、最低限の指示をし、帰宅した。妻の言葉。

「あの年齢は、ちょっと上から目線で舐めているような感じが普通。意外とそうじゃないんだよ。学生で、出来なくて当たり前?」

・・・まあ、そうだよな。そう思って指導してきたんだし。・・・「意外と、教える日々は、彼女が一生懸命で楽しかったりするしな。中体連の準備より全然いい。」そう思い、でも、もんもんと寝付けず、気がつくと翌朝。いつものように授業にその子を立たせ、自分は後ろ。それを確認し、授業前だったこともあるのだろう。真子ちゃんが、廊下へ出たようだ。・・・「どうしたのだろう?」。自分も廊下に出ると「昨日は申し訳ないことしました。心入れ替えて頑張りますので、もう一度よろしくお願いします。」ときた。その時、実は「じ~ん」ときたのだ。思わず声を大きく「昨日は昨日。頑張るなら、最初の通り全力で応援する。頑張れ」と少々力みすぎな自分で、恥ずかしくなる。結局、指導案は自分が考え、板書も同様自分が案を出す。ワークシートは自分が考え、それを彼女が「アレンジ」できた。丁寧だ、自分より。・・当日前、子供達に葉っぱをかけた。「真子先生を泣かせる1時間に。」「おまえらの出来で、彼女の未来が変わるかも。子供とか大人とか関係なく、自分の身近な人を支えたり救うかもしれない一瞬。頑張れ」と発破をかけた。当然、感動の渦で終わった。学級担任の見えない準備、学級づくり。教科担任と生徒の関係、いろんな下ごしらえが生んだ「感動」。それを見ていた老害の他学年チーフ。「こうやって間違って教師になるんだあ」。まあ、そう。知らないところで多くの人がお膳立てをして成り立つ教育実習。現場は、全然違う。昔も今も。でも、・・・夢ぐらいあっていいんじゃないか。まだ学生なんだから。夢くらい見せてやれないでどうする50代、と思い、その人をこっそりにらんだ。悲しい人だ、赤野さん。・・・でも、まあ、そういう事実は、現実でもあるのだけれど。

 意外と好きだったのかも知れない。今回の堅物の実習生。真子先生。そんな気持ちは、まあ伝わらないだろう。それが教育の姿。無償の奉仕。反省会も終わり、あとは評価をするだけ。昔、教育実習は、評価が、10段階の9、10でなければ、採用試験は落ちると言い伝えられていた。実際はわからないが、自分は、小学校、中学校の実習とも10だった。同期ももちろん。・・・。教員になり、実習生を担当し、昔、一人だけ、6とかつけて、「不可」的な意味合いの数字を出したことがある。もちろん、採用試験は「不採用」である。本当のところはどうなのか。

 さて、林さん。僕は教科の担当である。知識・興味は普通。必死さは、減点はあるが、「上々合格」。愛嬌はないが・・・。そう言えば大学の先生が、その授業を見に来た。教え子が必死に過ごしていたのに、第一声は「私は和歌が専門で、今日は楽しみです。」と、その「なよ竹」教授を見て、私は怒り沸々。違うだろ!あんたの専門うんぬんではなく、教え子の「成長」を見に来たのだろう?と怒ったが、あとで聞いた妻は「社交辞令よ。なんかいわないといけなんだから」。そんなもんか、と納得。

 真子さん。今のところ、私の評価は「10」。反省会では、(教師に)向かないかも、とか(あとで向いていると、理由も述べたが、ショックで聞こえていないか?大人は、その人が好ましいと、あえて逆の事をいうものなのだ。)最後に言ったよね。「厳しいことを言ったが、3週間、よく頑張った。今まで担当した実習生の中で、その頑張りは3本の指に入る。」

 私の中の評価は今のところ、「10」である。一晩寝て変わるかも知れないが。3週間ご苦労様。貴方を教えるのは本当に楽しかった。今は、その自分の心にぽっかりあいた穴の対処に困っている。少し時間がかかるか?貴方は、やること、要求されることが他の実習生の3倍もあったから大変だっただろうが。まあね、恋人とかではないので、まあ、娘を見届ける気分か。若い頃とは100パーセント違う。当たり前か。純粋に、だ。

 楽しい時間を有り難う。評価は「10」である。

(こんな、雑文、誰も読まないし、読んでも面白くないし、うまくまとまらない、まとめる気もないけれど、書いておきたいことだった。それだけ。あしからず。)

 

 

 

 

この世には、狂ってでも守らなければならないものがある。認知症、警察官殺人事件、いじめ問題・・・

 

~コードブルーの再放送を見て落涙しながら考えたこと。

 何となく見ていたコードブルーの再放送。目を引いた(心を振るわせた)場面。最後の最後の場面。期待の若き研修医。どんな場面でも、患者に感情移入せず、冷静に診断し、方針を決め、実行する。ある工事現場で、多数の重傷者を診る中、身体に長いドリルが突き刺さった患者を見つける。他の医者は、その後の重篤な結果を考え、「見守る」ことにする。その若き医者も、しばらくそうするが、その患者が、意識混濁しながら、次ぎに生まれる3人目の子供の名前を、その医者に託そうとすると、その姿勢を一変させる。「あなたは、まだやらなければならない仕事がある」と。まあ、子を持つ親として、ここでも感涙するのだが。

 その後、周囲に、その冷静さを「異様」な目で見られ始める頃、その医者を育てた祖母が、若き医者の勤務する病院へ運ばれる。別れて、数年後の再会である。若き医者は、幼少の頃、両親が離婚し、その後、数年ののち、両親とも病死し、遠く離れた祖母に引き取られ、育てられた。奨学金をもらいながら「医者」になる。祖母は一人暮らしの年金暮らし。孫を引き取り、当然、貧しい生活を強いられた。そんな祖母は、重度の認知症にかかっているとわかる。小銭入れにいれた「お金」に異様にこだわる病状。かわいい孫と再会するも、もう、それが自分が育てた孫と認知できない。そんな祖母を、リハビリ病棟で仕事の合間、介護しながら、車椅子で売店に連れて行く。目にする物を何でも手にする祖母を諫める若き医師。聞き入れない祖母を諦めかけた時、祖母がつぶやく。「買わせてくれ・・・。(泣きながら)約束したんだ。こうすけに一杯のお菓子をかってやるんだと。こうすけ(医師の名前)は一人で頑張っている。わしには、これぐらいのことしかしてやれない。こうすけは、頑張っているんだ」。聞いて、その若き医師は祖母を抱きしめ泣き崩れる。

 長くなったが、この場面でいろんな事を考えた。親のこと。子供のこと。今は無き祖父母のこと。・・・どこかで聞いたかもしれない、「人間は狂っても守らなければならないものがある」ということを。それは、子供への愛情。親への愛情。それしかない。それが、人間である最低条件ではないか、と。

 いつかかいた、職場の執拗な事件。被害者も可哀想だが、加害者ではないか、と疑いがちになる教員。追い込まれているのである。加害者か、と疑われる女子の家庭環境も劣悪である。夫婦は離婚。引き取った父親のDVにより、祖父母宅から通学。巡視の帰り、見とがめられ・・・その瞬間、立ち止まり、自分の車を追いかけ笑顔で手を振るあどけなさ。事件解決でやれることが限られる中、大切なのは、生徒への「愛情」であろう。裏切られる事を恐れない「愛情」。

 母方の祖母。若い頃、祖父のDVに怯えながら、死ぬまで我慢して尽くし、自分の贅沢を、何もしない人だった。子供が大きくなり他家に嫁ぐようになって、子供らからたまにもらう「お小遣い」でパチンコの羽台で楽しそう遊ぶ姿が懐かしい。孫の自分も何度か一緒に遊んだが、なぜだか一度も負けたことを見たことがない。いつも自分が小遣いを使い果たし・・・婆ちゃんはまた、バスで30分ほど揺られ、家に帰っていく。そんなばあちゃんも認知症にかかり・・・。

 親や祖父母に限らず、人間は、生きていく中できっと人知れず、子供や親、友人に対して、「頑張れ」「よく頑張っている」という感情を秘めながら、その人達を想い生きているのだ、そんな事を思った。

 自分も含めて、明日はどうなるか、わからない。認知症になり、今を認識できなくなるかもしれない。でも、と思った。「たとえ狂っても(言葉に語弊があるのはわかりながら)、それでも、守りたい、守らなければいけないものが、人にはある。そうありたい」と。

 そんな事を考えていたら、「滋賀県彦根市の交番で彦根署の井本光(あきら)警部(41)が同僚に拳銃で撃たれて死亡した事件」を思い出した。その行為は、警察官として当然罰せられるべきだが、その原因が、「被害者に両親を侮辱された」ことが一因だとした。それが本当なら、この被害者に対しても同情ではなく、「自業自得」のような気持ちになる。「いじめ」の本当のつらさは、「仕返し」が許容されない社会風土にあるからだ。いじめ被害者は、すべてを失う覚悟がなければ、何もできない。だから、その最終手段として「自死」を選ぶしかない。ここを理解する教員やSCはほとんどいない。SCに至っては、お金持ちの婦女子がほとんどで、いじめ問題にいたっては、加害者側にいた人が多いのではないか。ここに、いじめ問題の闇の一因がある。

思春期不定期愁訴?頑張って学校おいで。

リストカット不登校、家庭不和?、担任の無関心、お門違いのスクールカウンセラー。重なる闇の五重奏。田中真子とのたわいない会話から。

 「今度は月曜日。きついなあ」「おれも、そう」「ええ~(笑)」「38度ぐらいでたらなあ、って思うこと結構あるねん。」「うん」「月曜日、朝からこいよ、待ってるぞ」「(笑って)うん。」。

 田中真子ちゃん(中2 仮名)。4月まで普通に登校。ただ、昨年も不登校傾向あり。家庭訪問時は、放課後、学級目標づくりで数人の仲間?と1~2時間残り作業。(メインは他の2~3名 そばで少し参加しながら微笑んでいる。)他に、根拠はないがリスカもしているかも?と噂されている。

 担任は部活大好き人間で、あまり個々の生徒の問題に接すること・気にすることをしない50代。彼女が5月から朝登校できず、3校時から登校するようになっても、特に家庭訪問するわけではなく(部活あるし、まあ学校きてるし)、声をかけるわけでもない。副担である自分は、学級目標づくり時の淡い笑顔が気になり、その後3日間、その手伝いに、学級に顔を出し、「くだらないこと」や家庭学習の仕方、部活の愚痴などただ聞いていた。

 全然朝からこれなくなっていたある日、養護教員に、「田中、朝、こないんだよな、ちょっと話しにいくかな」と聞いたら、「あの子、自分の領域に入り込まれるの嫌だというから」「ふうん」。・・・まあ、それで終わっておけば、楽な仕事なんだけど。それができない性分だからしたかがない。

 3時間目後の休み、田中を見つけ、「朝、こいや」「だってこれないいだもん」「腹痛いのか」

「そんなんじゃなく」。「わかった、話聞いてやる」「ええ~」。ここで、取り巻きの2人(彼女は友達と思っている?)が、「田中、先生に何も話さないよお(笑)」。

・・・「真子は話すよ。だって、4月に話したとき、俺にはすべてあからさまに話すって約束したし。」「ええ~してないよ。」「いや、した。おれの心のメモ帳に書いてあるし。」(もちろん嘘である。)ここで、チャイム。互いに笑いながら別れる。

 昼休み、予告通り田中を捜し、話しに行く。手で「こいこい」をすると、泣き笑いしながら「ほらー」。そうして、取り巻きと来る。色々話すが、取り巻きが、明るくふるまう振りしてそらす、ごまかす、邪魔する。・・・彼女らを無視して、話し続ける。

「学級いやか」「ううん。学級は楽しいよ」(取り巻きが側にいる)。「だったら来い」「だってこれないんだ」「朝起きれないか、飯食べれないか」「そんなことない」

「ふ~ん。だったら来い」「行きたいけど行けないんだ」「なぜ?」「家の・・・問題か?」(今思えば、よく踏み込んだものだ。)「家の雰囲気もやだけど、学校よりいいし」「うん」・・・「担任が嫌なんだ。」

 困った。予想はしていたけれど、直球は予想しなかった。「ふ~ん、でも、なあ、世の中に、嫌な奴なんていっぱいいるし、イケメンが女を騙すなんてざらに、なあ」とふざけた雰囲気で、少し逃げる。

「SC(スクール)カウンセラーとか嫌なんだ。全然希望していないのに、勝手に予約入れられて・・・」。そう言えば、うちのSC、いろんな肩書きついたせいか、妙に積極的で、教師や担任を超えて、頭ごなしに相談業務?に勤しむ。担任も管理職も、めんどくさいからさせとく。結局、何かあったとき責任とるのは、彼女じゃないのになあ。

「なるほど、その件はわかった。担任じゃなくとも、そのSCのなんだか?おばさんに会うとき断れば良いんじゃない?私は希望しませんて。」「うん」。

「とりあえず、学校こいや。おまえ、俺の授業、4月の中頃からまともに受けてないべ。おまえの顔見ないと、なんだか寂しいしな。」「ええ~うそ~」「本当だ」「絶対嘘だ~」(笑って)。取り巻きの前で敢えて演じてみた「あほな素顔」。 

 ここで時間終了。数時間後、放課後、彼女に会ったときの会話が最初の会話である。

 担任の無関心。更新制度のないSCの暴走、それを知らない、止めない管理職。まあ、大人同士の喧嘩ほど面倒くさく、修復できないものはないから、わからんではないが。それに、取り巻きの、自分が構ってほしいがための「友達ごっこ」という監視?保護者の養育意志の有無。本人の未成熟ゆえの甘え。まあ、生意気じゃないのなら甘えさせても良いんだけれど。幾重もの「闇のスパイラル」が、彼女を苦しめている。それでも、思う。立ち直るのは彼女自身の力しかない。周りは、構って、笑って、側にいて。それしかないのだ。頑張れ、田中。