教師の傲慢と勘違いが生む悲劇。「めめしさ」、何が悪い?

 「子供を変える」「子供を救う」。さすがに、今、公然とそんな事を言う教師はいないだろう。「勉強が出来ない子を何とかできるように」。これは、ちょっと見、当たり前の「目標」だが、実は、我々、教師の「傲慢さ」かもしれない事を、多くの教師は考えない。また、そう言う教師ほど、その「出来ない子」を、最後まで、「救おう」ともがかない。そういう教師ほど、最後は「親」のせいにする。(ある意味、親の影響が大きい事は、学力格差と経済格差の調査で明らかになっているが。)

 「学校」は、他人様の大切な「子供」を預かる場であり、あずかる人が「教師」なのだ。多人数の共通幸福を設定し、「安全」「安心」の場を追求し、子供にそれを強いる、そういう役割の人なのだ。一介の教師が、人間的にも完璧では当然あり得ない大人の一人である教師が、子供を「救う」「変える」なんて、おこがましいのだ、ということを、30代後半に考えた。変えられるのは、学校という場の「環境」でしかない。それすらも、ある一定の条件が重ならなければ、至難の事なのだが。

 

 

 

 先日、試験の採点をしていて突然、40代の同僚が、生徒指導のあと、微苦笑しながら、今、千春の「恋」の心境だな、と漏らした。当然、30代前半の教師は「?」。千春も剛も、「女々しい」時が一番良かった、と言う。思わず、笑いながら(しばらくぶりの楽しい時間だったので)千春の「女々しい」おすすめの歌として4曲「涙の向こうに」「貴方だけ」「父」「私を見つめて」を勧めた。30代教師は、ネットでそれらを調べ、ちょっといいですか、と居残り(その時20:30)の同僚に断り、「父」をパソコンで流し始めた。・・・とてもほほえましい光景のようだが・・・ここに、今の「教師」の目の危うさを見た。「女々しい」という言葉を使った教師に「悪意」はなかろうが、「女々しさ」の何が悪い?と頭に浮かんだ。人間、みな女々しい感情、女々しい経験があるのではないのか?そんな気持ちが。この人達はそんな経験、「男男しい」経験しか知らないのか?と。つまりは、「女々しい」部分を持つ生徒の「複雑な」心の揺れを、多分、「闇」としか感じられないのだ。この子は「闇」があるから。そう訳知り顔で語る教師に、違和感を感じ得ない。「女々しさ」の中にこそ、「伝えたい・伝えられる」気持ち、共感を見つけられる事もあるのではないか。・・・それでも、まだ、「千春」「剛」を話題にする40代がいることにほっとしたのも事実。もう30代は、「?」なのだから。