お友達教師の「無責任」という害悪。

 若い教師が陥りがちな「生徒に寄り添う」=「生徒と同レベル(お友達)」

 ここには、意識レベルでの大きな問題点をはらむ。

1、大人として生徒の前に立つ「責任」の放棄

2、生徒に迎合=肝心なときに「お友達以下」になり、生徒集団を管理出来ない。

  →「何を今更」で、指導が響かない。→いじめなどを生む空気の醸成

3、教師は「大人」であり、子供世界の外枠に存在し、子供と「お友達」になれるわけ

  はないという事実を理解していない。

 そして、そういう教師が年齢を重ね、中堅になり、という、ある意味「劣化」が今学校現場で進もうとしている。

 例えば、席替え。教師が決める。(席全部だったり班長のみ決めあとは生徒だった りするが)とくじ引き。どちらかいいか。私は前者である。班長などを教師が決めることで、何を教師が求めているか、その人物像を考えることで、考えさせることが出来る。また、班は、望ましい集団作りの基礎である重要性とともに、ヒエラレルキーをあえて作ることで、情報通路を作ることができる可能性を持つ。他に、学校は、生徒にとって「すべてが思うようにいくわけではない」という社会性(社会耐性)を考えさせる事に繋がる。バランスが大切なのはいうまでもないが、すべての子供に平等な「安全」「安心」の場を提供するためには、バランスのとれた「管理」が必要なのである。

 今、若い教師に「くじ引き」でしか席を決めない教師が目立つ。その姿勢に、学級崩壊やいじめにつながる「雰囲気の醸成」への予防という姿勢のなさに恐れさえ感じる。管理教育=悪という情報操作世代の危うさであろう。席替え一つにさえ「神経を使わなければいけない」時代であることに、気づかなければいけないのだが。部活動の多くに時間を割き、神経の使いどころの勉強をしない、これからの「学校現場」の行く末は明るくはない。安心・安全な場所である学級経営(学級作り)は西遊記のお釈迦様と悟空のイメージなのだが。

 それにしても、何か事が起こると「担任」が人身御供にさらされる。でも、担任を拒否したり、その実力がない、してはいけない教師と給料は同じである。担任手当などがあるわけでもない。しかし、身につけなければならない力量は多岐にわたり、これからは道徳の授業の準備等も加わる。(現実担任業務である)加えて保護者対応。(特にPM対応力)。もちろんいじめ防止力も。(実は、それは非常に偶発的要因に左右され困難を極めるが)。そして、それを突き詰めたくなる人ほど、管理職に選ばれない。(まあ、なりたいとあまり思わないけど、ブラック過ぎて。)

 担任は、それこそ、「生徒の成長に携われるロマン」や「やりがい」と言った「金銭」以外の、ある意味ボランティア精神みたいなものに、実は学校が、生徒の安全・安心が支えられている事を知って欲しいと思う。(成果報酬さえ担任は冷遇される。)

 悪しき平等主義、世の中の不条理が、現場のシステムに凝縮されている。繰り返すが、事が起これば「担任」が人身御供にされる(もちろん、その人の力量に問題がある場合もあるが)昨今、担任をやりたがらない教師が、一昔前より激増している事に警鐘を鳴らしたい。(もともと、技術を伝承するということに不向きな職種ではあるのだが。)