広がる高校間格差。無間地獄のスパイラルはどこに行く?

 経済格差→高校間格差→広がる格差。負のスパイラルは続く。

 

 一時ほど騒がれなくなった「学歴」。「学歴信仰」は無くなったのか。事実は否である。確かに、「学歴→安心」という保証は無くなっているように見える。しかし、保証は無くなった代わりに、学歴格差→可能性の格差は広がるばかりである。

 あるE高校。Gランク100点そこそこが合格圏である。高校の説明会では進学率90パーセントという。だが、調べてみると、就職者のほとんどはアルバイトやパートであった。仕方なく多くの生徒は大金を出して「専門学校」へ「進学」し、猶予期間を得ようとする。それが「90パーセント」の本当のところである。

 話は変わるが、現在の北海道の札幌圏の高校入試は一部の(札幌南・北・西・東)という超進学校へ出願者が殺到し、他は定員割れか店員すれすれ、そんな傾向が年々強まっている。それには、前述のような「あの高校へ進学」したあとの先が見えない「不安」がそうさせているのである。学力がある程度あり、教育に関心のある家庭ほど、その選択肢が「狭い」ことに気づき、おののく。

 そう言う意味では、上位校と底辺校の高校間格差は広がり続け、そこに漂う「緊張感」の質の違いも大きく広がりつつある。

 では、その格差の広がりはどこに起因するのか。それが「経済格差」だというのは公然の事実で、マスメディアが注目する何年も前から「良識ある教師」の中では語られてきた事実でもある。「勉強がわかる」「勉強が出来る」。その為の土台は、実は、多分、学校や教師の影響はあまり大きくなく「家庭」に因る。中学の「成績を左右する」のは、実は小学校4年生からの家庭での勉強習慣や質が大きく影響をする。「学校」の勉強だけでは早晩行き詰まる。それが今のカリキュラムなのだということは意外と知られないし、受験とあまり関係のない小学校の大部分の教師すら、考えたこともないだろう。小学校4年次に教科書に出てきた問題だけをやる子供と、家庭で質の良い問題を「親子」で楽しみながらする子供。国語=漢字練習という子と、読書の他に質の良い問題集を「本代わり」に読み、問題を解く子供。差が出ないわけはない。そして、そんな事に付き合える家は、そんなに多くはない。ましてや、教育にお金をかけられる家庭とそうでない家庭の、その差が中学の1年生中頃から出始め広がる。この段階で「どう勉強していいかわからない」子供は、どんどん無間地獄のようなスパイラルの中にはまりこむ。そういう子供をなんとかする、それが実は、授業のなかでは、どうすることも出来ないのだ。(積み重ねた力・意欲・学習できる環境。)経済的に苦しい家庭の親は、そこまで子供と一緒にいれない、出来ない。それが学力の格差=経済格差と言われる正体だ。そして、その差は、高校選びに直結する。子供自身の「意識」「意欲」にも差が表れ、もちろん「準備」の差も大きくなる。そうして、「選ばれる高校」の格差も広がり、その高校を選ぶ生徒の質も大きく違うものになる。それが高校間格差の正体なのだ。そして、それは、今や大学間格差に結びつき始めている。「あの大学に行って、そのあとどうする?」である。そういう、中学教師にとっては身近な課題に、「受験と直接関わらない」小学校教師は無頓着である。自分の学級、自分の授業だけを見て、自己陶酔・自己満足(それすらしない人もいるかもしれないが)しているうちに、子供の未来は狭められているというのに。

 ところが、その格差に、「部活動やりたがり教師」が輪をかけるのである。前述したように、札幌圏内では札幌南・北・西・東のいわゆる4校は、熾烈な競争(不合格になった時の受け皿がないだけに)の末、入学できる「超進学校」だ。しかし、そこで教鞭を執る教師は、そんな進学校だけに勤めている人ばかりではないのだ。いわゆる底辺校に勤務し一日中部活動を教えてきた教師が赴任してくることもある。そうすると目も当てられない。やることは底辺校と同じ。生徒が従順なだけにやりたい放題。例えば、学校で決めたH大のオープンキャンパス全員参加というルールも、同じ日に、今年から全員参加の合宿をするので、H大のオープンキャンパスに参加することは許しません、と堂々とルール無視をする。保護者は、その部活の人数も少ないので「声も上げられない」。(声を上げれば、誰の保護者なのか、すぐにわかり子供が嫌な思いをする可能性があるとか)。なにをかいわんや、である。子供の未来を、自分がやりたいという「欲望」の犠牲にする。ルールを守らせる教師が平然とルールを破る。

 生徒の歩く道のすぐ横にある「負のスパイラル」。それは、身近な教師その人が作っているのかもしれないのだ。