良い学校の条件とは。それは「我慢」ができる集団かどうか。

 たくさんの学校を歩いてきて見えてきた良い学校の条件。平和で、いじめが無く、学力も向上し、仲間どおし、互いに認め合い切磋琢磨して、最後には、すべてのことが「良い思い出」に出来る生徒集団・学校。それは、どんな学校なのか。

 一口に言えば生徒一人一人が「我慢」できる学校である。我慢を覚える学校である。嫌いなタイプ(と思っていた教師)の授業も(我慢して)真面目に参加し、人間関係でも、自分の主張の譲るべき所を考え、人間関係を構築でき、ルールを破るラインを把握し、我慢し・・・など出来る生徒集団の学校である。

 「我慢」ばかりじゃないか、と思うかも知れない。でも、大多数の幸せの行き着くところは間違いなく、こんな学校である。そして、往々にして、「そんな学校」もそればかりではなく、その「はけ口」が、体育祭・学校祭など自分の所属感を感じられる行事で、その思いを作り出す。(まあ、それでも、あえて我慢させる場面もあるだろが)。

 だから、前述の「我慢出来ない集団」がある程度の人数をこしらえると、学校は規律を失い、「弱肉強食」の場になってしまう。そこには「おとなしく」「真面目な」生徒の居場所は、ない。

 自分が中学の頃、45人学級・1学年15学級という超マンモス校だったが、授業中は、教師の話を聞かず内職、道徳の時間は対立がエスカレート、あわや殴り合い、廊下では、授業をボイコットした輩が、段ボールで作ったボールでサッカー。嫌いな生徒指導の先生をめがけて、急に走りだし、クビにラリアット。泡吹く教師を見て嘲る。そんな学校。今も昔も教師は無力である。

 だからこそ、「体育系」ではない教師こそ、その規律の大切さ、荒れる前の集団作りの大切さ、怖さを学ばねばならないのだ。教師も生徒も「幸せな」場所を作るために。

 幸せは、その時にはその大切さ、貴重さがわからないものだ、と言われる。学校もそうなのである。特に思春期の、どちらにも流されやすい時期にいる大人は、危機感が必要なのだ。そして、その貴重な「共同作業」に真剣に参加した生徒には、心からすべての想いを注いで「感謝・返礼」をしなければならないのだ。そういう意識が、今の若い教師にあるのだろうか。・・・まあ、我が職場も、来年4月にその度量が試されそうだが。