検証のない「実験」が招く多忙化。適当化・

 

~教育現場は、検証のない実験場。予算の無駄遣い、「心」の摩耗。

 教育現場の「多忙化」が叫ばれて久しい。文科省の「お上目線」も問題だが、教育現場に勤める「教師」自身の意識もそれに拍車をかけている。たとえば

 「35人学級の実現」。→これは、「学力向上」や「いじめ防止」策として度々取り上げられる。地方自治体独自で、限られた予算のなか、中一のみで試みられている自治体もある。まあ、40人や45人の多人数で看取れる数は限られるというのは事実であろう。特に問題児を抱える担任の場合、6割は自然とその「問題児」の一挙手一動、その視線の剛柔に自然と目が向けられ、残り4割を、45人学級では、残りの44人に、ベテランでは「均等に」振り向けられる。人数が少ないに越したことはない。が、それが「いじめ防止」につながっているか、どうか、科学的(統計的)に検証され例はない。もちろん「学力向上」においてでもある。高き天井が全体を向上させるのか、低き底辺の向上が学力の向上につながるのか、その論は今なお双璧であるが、検証された例は皆無である。

 次ぎに「学校のカウンセリング機能」についてである。日常的に、学校現場で「カウンセリング機能」を求められるのは保健の先生、養護教諭である。日々、生徒の精神的・身体的状況を鑑み、時に叱咤、時に励まし、時に愚痴につきあい、明日への一歩の種を探すのである。児童・生徒の自殺が叫ばれたとき、文科省は、教師に近い(同僚なのだから当たり前である)養護教諭ではなく、客観的な目を持てる専門職のSC(スクールカウンセラー)の養成・設置に舵を切る。莫大な予算をかけてである。(時給換算なら一般教諭の倍以上である)そのSCは、どう専門的知識をえるのか。多くは、1回7~8万円の座学講習を4~5回受講し得るのである。臨床経験を積んでいるSCは皆無に近い。そんな40代ぐらいの女性が、一般教諭が秒コンマ(少し大げさか)で仕事をしているとき、公務補さんや臨時職員と「体重」「家庭」「夜のお話」を大声でし、笑い声をたてている。児童・生徒が相談があると、(何の権限かわからないが)授業中でもお構いなしに、「相談タイム」を設定し、児童・生徒の愚痴や他生徒の悪口に相づちを打ち、しまいには、「あんな先生がいるから」、とつぶやくのである。保護者に相談すると、「私はU家と昵懇だから」といい、あまり実績・評判の良くない小児精神科医?を紹介するのである。まあ、それで生徒・児童が立ち直ればいいのだが、そんな結果は聞いたことがないし(逆はあるが)検証もされない。世間話好きな「おばさん」のアルバイト先を、少ない財源の中作ってどうするのか、そうも思う。

 その他に、部活動は、生徒指導である。部活動をなくせば学校は荒れる、という昔からの「体育的伝説」がある。部活動を強くして、荒れた学校が立ち直ったか。体育教師だけ増やせば、学校は「幸せになる」のか。いまだ、検証されない。

 検証をする=軋轢を生む。それが「めんどくさい」から、行わない。そして、お上(文科省の役人)や現場管理職や教育委員会が、「思いつき」で効果があるかも?と思いついた施策が試される。予算が付く。→やるのは現場の教員。こうして仕事は増えに増え、その「効果」は検証されることなく、また新しい施策(思いつき)が受注される。

 いつになったら生徒・児童にとって、保護者にとって、働く教師にとって「良い学校とはどんな学校か」「どうすれば作り上げ・維持することが可能か」が検討されるのだろうか。

 大いなる無駄と浪費の場となっている「学校」。果たして変わることができるのだろうか。