この世には、狂ってでも守らなければならないものがある。認知症、警察官殺人事件、いじめ問題・・・

 

~コードブルーの再放送を見て落涙しながら考えたこと。

 何となく見ていたコードブルーの再放送。目を引いた(心を振るわせた)場面。最後の最後の場面。期待の若き研修医。どんな場面でも、患者に感情移入せず、冷静に診断し、方針を決め、実行する。ある工事現場で、多数の重傷者を診る中、身体に長いドリルが突き刺さった患者を見つける。他の医者は、その後の重篤な結果を考え、「見守る」ことにする。その若き医者も、しばらくそうするが、その患者が、意識混濁しながら、次ぎに生まれる3人目の子供の名前を、その医者に託そうとすると、その姿勢を一変させる。「あなたは、まだやらなければならない仕事がある」と。まあ、子を持つ親として、ここでも感涙するのだが。

 その後、周囲に、その冷静さを「異様」な目で見られ始める頃、その医者を育てた祖母が、若き医者の勤務する病院へ運ばれる。別れて、数年後の再会である。若き医者は、幼少の頃、両親が離婚し、その後、数年ののち、両親とも病死し、遠く離れた祖母に引き取られ、育てられた。奨学金をもらいながら「医者」になる。祖母は一人暮らしの年金暮らし。孫を引き取り、当然、貧しい生活を強いられた。そんな祖母は、重度の認知症にかかっているとわかる。小銭入れにいれた「お金」に異様にこだわる病状。かわいい孫と再会するも、もう、それが自分が育てた孫と認知できない。そんな祖母を、リハビリ病棟で仕事の合間、介護しながら、車椅子で売店に連れて行く。目にする物を何でも手にする祖母を諫める若き医師。聞き入れない祖母を諦めかけた時、祖母がつぶやく。「買わせてくれ・・・。(泣きながら)約束したんだ。こうすけに一杯のお菓子をかってやるんだと。こうすけ(医師の名前)は一人で頑張っている。わしには、これぐらいのことしかしてやれない。こうすけは、頑張っているんだ」。聞いて、その若き医師は祖母を抱きしめ泣き崩れる。

 長くなったが、この場面でいろんな事を考えた。親のこと。子供のこと。今は無き祖父母のこと。・・・どこかで聞いたかもしれない、「人間は狂っても守らなければならないものがある」ということを。それは、子供への愛情。親への愛情。それしかない。それが、人間である最低条件ではないか、と。

 いつかかいた、職場の執拗な事件。被害者も可哀想だが、加害者ではないか、と疑いがちになる教員。追い込まれているのである。加害者か、と疑われる女子の家庭環境も劣悪である。夫婦は離婚。引き取った父親のDVにより、祖父母宅から通学。巡視の帰り、見とがめられ・・・その瞬間、立ち止まり、自分の車を追いかけ笑顔で手を振るあどけなさ。事件解決でやれることが限られる中、大切なのは、生徒への「愛情」であろう。裏切られる事を恐れない「愛情」。

 母方の祖母。若い頃、祖父のDVに怯えながら、死ぬまで我慢して尽くし、自分の贅沢を、何もしない人だった。子供が大きくなり他家に嫁ぐようになって、子供らからたまにもらう「お小遣い」でパチンコの羽台で楽しそう遊ぶ姿が懐かしい。孫の自分も何度か一緒に遊んだが、なぜだか一度も負けたことを見たことがない。いつも自分が小遣いを使い果たし・・・婆ちゃんはまた、バスで30分ほど揺られ、家に帰っていく。そんなばあちゃんも認知症にかかり・・・。

 親や祖父母に限らず、人間は、生きていく中できっと人知れず、子供や親、友人に対して、「頑張れ」「よく頑張っている」という感情を秘めながら、その人達を想い生きているのだ、そんな事を思った。

 自分も含めて、明日はどうなるか、わからない。認知症になり、今を認識できなくなるかもしれない。でも、と思った。「たとえ狂っても(言葉に語弊があるのはわかりながら)、それでも、守りたい、守らなければいけないものが、人にはある。そうありたい」と。

 そんな事を考えていたら、「滋賀県彦根市の交番で彦根署の井本光(あきら)警部(41)が同僚に拳銃で撃たれて死亡した事件」を思い出した。その行為は、警察官として当然罰せられるべきだが、その原因が、「被害者に両親を侮辱された」ことが一因だとした。それが本当なら、この被害者に対しても同情ではなく、「自業自得」のような気持ちになる。「いじめ」の本当のつらさは、「仕返し」が許容されない社会風土にあるからだ。いじめ被害者は、すべてを失う覚悟がなければ、何もできない。だから、その最終手段として「自死」を選ぶしかない。ここを理解する教員やSCはほとんどいない。SCに至っては、お金持ちの婦女子がほとんどで、いじめ問題にいたっては、加害者側にいた人が多いのではないか。ここに、いじめ問題の闇の一因がある。