教育実習生の指導を終えて。真子先生。評価は「10」だよ!

~今日は書きたいことを。伝わらない「想い」、を耐えるのが教育なのだ。

 今日で教育実習生の指導を終える。書きたいことを書きたい。本当に、教育業はボランティアなのだなあ、と思いつつ過ごした3週間のこと。

 相手は、石狩市の唯一の女子大の学生、真子さん。私の学校の卒業生である。その当時は、窓も荒れ、授業も成り立たない、1学年400人強、全校生徒1000人を超えるマンモス校の時代の生徒らしい。「らしい」というのは、自分は教師であり、本校とは、それ以外の何にも関係はなく、彼女も知らないから。

 ちなみに、一昔は、教育実習は、大学の教官が、生徒の話を聞き、居住区や出身地やら、色々考えて、実習校を決め、斡旋したものだが、今は、大学病院の医学部と同じく、教授に力無く、学生本人が、その場所を決め、許可を得なければならない。したがって、昔、どんな生活をいようとも、自分の「母校」に連絡をとる。

 ところが、昔から行われている教育実習が100パーセント、学校側のボランティアだつた。自分の仕事をひとまずおいといて、学生の指導に全力を傾け、学生が帰る21:00頃から自分の本来業務をする。それが「当たり前」であり、自分らもそうされてきたという気持ちで頑張った。・・・今は、断ることも普通。それだけ、現場には息をつく隙間がない。だから、大学側には、なんの武器もなく、学生が自分で探して決める。それができないなら、教育実習はあきらめる。そんな時代である。だから、許可しても、指導教官は別に、熱も入らない。入れる必要のもない。そんな気分が蔓延する。いわば「迷惑」そのもの。・・・そんな教育実習の3週間が終わったのである。

 さて、そんな自分は、今回、どんな気持ちで臨んだのか。一言「へとへと」である。

50の声を聞き、実習生の指導も最後かな?との思いもあり、「気持ち」があれば、すべての引きだしを開けて紹介しよう、幾多の「法則」を。とも思ったのだ。・・・なんて「優しい」。俺も年をとったなあ。

 「発問と指示」の違い。視線の偏り、当てるときの間合いに込める優しさ、机間巡視

の意図とレベル別の指導の準備、など、今までで一番丁寧に教えた。だって一応やる気があるようだから。

「教員採用試験受けるの?」「はい」「受けないのだったら正直に。授業は教授がくる週の2,3回で。子供は実験台じゃないから。」「受けます。」「なら、真剣に、全力で。それがあれば、こっちも真剣にするけど。そうでなければ、ね。」「頑張ります」。「まず、僕の授業を観察し、同じような方法で追試してもらう。そして、それを次ぎの単元でアレンジし、最後の週だが・・・・おなじ説明文的文章をやるか、全然違う「短歌」をするか。・・・」「やらせて頂けるなら、全然違う単元の短歌もやってみたいです。」・・・ほお~やる気はある?それが始まりである。

 しかし、その私大の彼女。思ったより「学力」がない。空き時間の50分から100分を使い、その後、17:00や18:00~1時間ほど使い、発問や指示、言葉使いの指導・・・。20:00を過ぎ、それから自分の仕事を行い、くたくたである。

 それでも、一生懸命な子であった。ノートを見ると、反省やら指導されたことやら明日への課題やら、メモ書きがびっしりである。容姿端麗というほどでもなく、愛嬌があるわけでもなく、固い頭・表情・・・でも、笑顔は、いけるのである。第一の指導は「笑顔はいいよ。そこは「武器」」。あるとき、卒論の準備があるとかで、その日の指導案が出ない。研究授業本番の指導案も「雑」。その日の18;00までと改めて期限を決めたが、出ない。「僕、帰るから。いいんだね。」「私、全然大丈夫です。今行きます。」・・・何が大丈夫なのか?心がない。そこで、言った。

「授業はさせられないわ。」「気分が悪い」。指導案も、「先生、指導案。」と突き出す。「あなたは、卒論も教授に、これ、って突き出す?」「そして、卒論の・・・は貴方の都合。子供は実験台ではない。」「普通はさせてもらってるのだから、前日までには点検を受けるのがマナー。」「言葉が悪いが・・・舐めている?」。その子は、「申し訳ありません」と誤るが響いてこない。まあ、いいか。と。でも、あと数日だし、最低限の指示をし、帰宅した。妻の言葉。

「あの年齢は、ちょっと上から目線で舐めているような感じが普通。意外とそうじゃないんだよ。学生で、出来なくて当たり前?」

・・・まあ、そうだよな。そう思って指導してきたんだし。・・・「意外と、教える日々は、彼女が一生懸命で楽しかったりするしな。中体連の準備より全然いい。」そう思い、でも、もんもんと寝付けず、気がつくと翌朝。いつものように授業にその子を立たせ、自分は後ろ。それを確認し、授業前だったこともあるのだろう。真子ちゃんが、廊下へ出たようだ。・・・「どうしたのだろう?」。自分も廊下に出ると「昨日は申し訳ないことしました。心入れ替えて頑張りますので、もう一度よろしくお願いします。」ときた。その時、実は「じ~ん」ときたのだ。思わず声を大きく「昨日は昨日。頑張るなら、最初の通り全力で応援する。頑張れ」と少々力みすぎな自分で、恥ずかしくなる。結局、指導案は自分が考え、板書も同様自分が案を出す。ワークシートは自分が考え、それを彼女が「アレンジ」できた。丁寧だ、自分より。・・当日前、子供達に葉っぱをかけた。「真子先生を泣かせる1時間に。」「おまえらの出来で、彼女の未来が変わるかも。子供とか大人とか関係なく、自分の身近な人を支えたり救うかもしれない一瞬。頑張れ」と発破をかけた。当然、感動の渦で終わった。学級担任の見えない準備、学級づくり。教科担任と生徒の関係、いろんな下ごしらえが生んだ「感動」。それを見ていた老害の他学年チーフ。「こうやって間違って教師になるんだあ」。まあ、そう。知らないところで多くの人がお膳立てをして成り立つ教育実習。現場は、全然違う。昔も今も。でも、・・・夢ぐらいあっていいんじゃないか。まだ学生なんだから。夢くらい見せてやれないでどうする50代、と思い、その人をこっそりにらんだ。悲しい人だ、赤野さん。・・・でも、まあ、そういう事実は、現実でもあるのだけれど。

 意外と好きだったのかも知れない。今回の堅物の実習生。真子先生。そんな気持ちは、まあ伝わらないだろう。それが教育の姿。無償の奉仕。反省会も終わり、あとは評価をするだけ。昔、教育実習は、評価が、10段階の9、10でなければ、採用試験は落ちると言い伝えられていた。実際はわからないが、自分は、小学校、中学校の実習とも10だった。同期ももちろん。・・・。教員になり、実習生を担当し、昔、一人だけ、6とかつけて、「不可」的な意味合いの数字を出したことがある。もちろん、採用試験は「不採用」である。本当のところはどうなのか。

 さて、林さん。僕は教科の担当である。知識・興味は普通。必死さは、減点はあるが、「上々合格」。愛嬌はないが・・・。そう言えば大学の先生が、その授業を見に来た。教え子が必死に過ごしていたのに、第一声は「私は和歌が専門で、今日は楽しみです。」と、その「なよ竹」教授を見て、私は怒り沸々。違うだろ!あんたの専門うんぬんではなく、教え子の「成長」を見に来たのだろう?と怒ったが、あとで聞いた妻は「社交辞令よ。なんかいわないといけなんだから」。そんなもんか、と納得。

 真子さん。今のところ、私の評価は「10」。反省会では、(教師に)向かないかも、とか(あとで向いていると、理由も述べたが、ショックで聞こえていないか?大人は、その人が好ましいと、あえて逆の事をいうものなのだ。)最後に言ったよね。「厳しいことを言ったが、3週間、よく頑張った。今まで担当した実習生の中で、その頑張りは3本の指に入る。」

 私の中の評価は今のところ、「10」である。一晩寝て変わるかも知れないが。3週間ご苦労様。貴方を教えるのは本当に楽しかった。今は、その自分の心にぽっかりあいた穴の対処に困っている。少し時間がかかるか?貴方は、やること、要求されることが他の実習生の3倍もあったから大変だっただろうが。まあね、恋人とかではないので、まあ、娘を見届ける気分か。若い頃とは100パーセント違う。当たり前か。純粋に、だ。

 楽しい時間を有り難う。評価は「10」である。

(こんな、雑文、誰も読まないし、読んでも面白くないし、うまくまとまらない、まとめる気もないけれど、書いておきたいことだった。それだけ。あしからず。)