振り返る。中学生の時の「夢」。

~「夢」なんて、なかった、と思っていた。中学生の時の夢。

 先日、職場で中学生の時の夢を紹介する企画があった。係から3日前くらい前に提示されていたものだった。その時、実は、相当困っていた。何か言うと嘘になりそうで、それでも良いか、と思ったり。そう、長い間、子供の頃、自分には「夢」がなかったと思っていたのだ。(高校生くらいになると「作家」になりたいと切望していた時期があったが。)さあ、何かあったのか、夢というものが。少し呻吟したのだ。そして、たまたま思い出した。ある時期、真剣に信じ、決意し、生きる世術にしていたもの。幼稚な、独りよがりな、少しだけ危ういものがあった。・・・ただ、それを果たして周囲に披露していいものか。それは。

 「1999年にアンゴルモアの大魔王が人類の前に現れ、人類は滅亡する」という、ノストラダムスの大予言。どうしてなのか、時代の空気か、貪るようにその書物を読み、考えたものだ。その時期、自分は30歳。もしかしたら就職して数年後?結婚とかもしていない?その後の自分の生き方に、無意識下に大きく影響を与えた一つ一つの言葉。その後の自分の生き方は、ある意味刹那的。ある意味純粋に。ある意味、その時のための「覚悟」を醸成していた。そして、周囲に、そんな人間が「それなりに」いた。その書物が、ベストセラーになり、一大ブームになったのだから。

 その書物の「最終版」の最後の一言が、多分、今の自分の生き方に影響を与えたのだろう。「未来は変えられる。この本を読んだ読者の、一人でも多くが、この予言が変えられる事を信じ、行動して欲しいと思う。その結果、この予言がはずれた時、それは、はずれたのではなく、君達が「変えた」のかもしれない。それを信じない人には、日常の続きの一日が、実は、君達が変えた「新しい」日常なのかもしれない。1ミリでも、そのために必要な行動をして欲しい。そう行動する人達が一人でも多くなることを信じる。」、そんな言葉だったと思う。

 あの時の自分の「夢」は、その一人になること、だった。そう、「ノストラダムス」の大予言を変えられる人間の一人になること、だった。そんな思いで、今の職業に就き、言葉を紡いでいたのだった、と若かりし時分をも思い出した。

 隣の女性に「ねえ、何を書いた?」と聞かれたので、「いや~意外と真面目にかいたんだけどね」と困り顔で、「ノストラダムス」の大予言を変えられる人間の一人になること」と書いた紙を見せると、「ええ~そっち系?」。

 ノストラダムスの大予言も知らない世代にそっち系と言われてもねえ。その人達の夢は「お嫁さん」「看護婦」。中には、職場に内緒で、生徒を教える外部コーチと同棲している臨時採用の女性や、強面で、あんまり似合わない「看護婦さん」と答える女性。

 夢すら、みんなと同じでないと落ち着かないのだろうかねえ。小さい頃、何を夢見ていてもいいだろうに、ねえ。

 今、わかった。夢は忘れるためにあるんだ、きっと。生きるためには、夢は忘れなければならない、そんな人が多いのだ、きっと。だから、夢という言葉は、いつまでも輝き続けるのかもしれない。