「失敗の顔」が出てきて党の再生はできるのか? との指摘に前原誠司氏は「怖さを知っている」 一方、枝野幸男氏は…

~大切なのは「失敗の経験」ではなくて、「反省」から生まれる次の一手

民進党代表選に立候補した前原誠司元外相、枝野幸男官房長官は22日の公開討論会で「民主党政権での『失敗の顔』が出てきて党再生はできるのか」と質問されたのに対し「失敗も経験だ」と口をそろえて反論した。 前原氏は政権を担った経験に触れ「一つの失敗が命取りになると認識させられた」と総括。「怖さを知っている人間が中核にいなければ、再び政権を取っても失敗を繰り返すだけだ」と訴えた。

 枝野氏も「さまざまな成功や失敗を最も見てきた自負がある。経験をした人間が中心を担わなければ、責任を持って政権を担当することはできない」と強調した。

(産経ニュース 2017.8.22 20:11更新

 

 今となっては何の関心もない。お家芸の足の引っ張り合い、非協力などの「内紛」。

「組織作り」など地道な活動に興味がない「お子様集団」。

 それよりなにより、「あのとき」の自分たちの行動・言動の反省がまったく感じられない中での「再登板」は白けるばかりである。この人たちには、この国をどうしたい、という「政治家の魂」みたいなものがない。(自民党も、そうか)自分が権力を握ってみたい、それだけ。前原氏は政権を担った時の「一つの失敗が命取りになると認識させられた」というが、「一つの失敗」とは何を指すのか、はっきりしない。自分が立ちたいが為に、小沢氏を引きずり降ろしたことか、それとも、原発事故後の右往左往した仲間たちに、安全圏にいて「言うだけ言った」、どこかの一言か。

 原発事故の際の枝野氏の態度・言動も、日本を担うに疑問符が付く。2人も、国民の前で「総括」されていないのだ。人は、反省の生き物だ。猿でも、と言われる「反省」のあとに、魂のこもった背水の陣の「一手」を見つける。その「一手」を引っ提げて再登板する姿を「成長」というのだろう。民主党の面々にはそれがないから、信用されない。組織にも個人にも。

 それがいまなお見えないとするなら、この党は解党しかないだろう。(解党には、どちらかというと前原氏が近いか。)