松山千春「写真」を通勤前に聞きながら。「昭和の天才」の声に、あのときの想いを重ねて。

~人は、結局、自分の青春時代の曲に「癒し」を求めるのか。

 色々な歌手・曲に出会いながら、年を重ね、結局、自分の青春時代の曲に、自然と回帰するものなのか、と最近実感する。この頃は、松山千春玉置浩二を、短いスパンで交互に聞きながら、職場に向かう。その中の1曲。松山千春「写真」。

 

 アルバムの片すみに 見つけた写真一枚

 楽しそうに肩を組み 笑顔浮かべた二人

 

 年を重ね見えてくる、その「時」。それが、笑顔であるか、悲しさであるか、意外とそれらは同じ「種類」のものかもしれない。

 

 ただ燃え上がる 愛を 身体で受けとめて
 今 この時が すべてと信じてた

 

 若いとき、そして、側にある「愛」らしきもの。それはかげがえのないもので、なにものにも代え難い「何か」に見えてくる。それが、「錯覚」だとしても、そこに「すべて」を見る。それが、一人ではなく、二人なら。


 眠れずに おたがいの 夢を語り疲れて
 明けきらぬ 街の中 腕を組んで歩いた

 

 若い頃の「夢」。それは、いくら語り合っても尽きる事はなく、時間だけが過ぎていく、そんな事の繰り返し。気がつけば同じ事を言い合い、理由無く涙流れ、そのそのままに、酒を煽る。それが、一途だと思っていた。

 ただ愛だけじゃ なんにもできないことくらい
 そう 気づいてた 子供じゃないからね

 

 でも、それだけでは生きていけない。何かを捨てて、「強くならなければ」、壊れてしまう、そう感じていた、20代。もう「子供じゃない」。

 さよならが 言えないと 電話かけてきたとき
 わかってた 何もかも あとはことばにならず
 ただ泣きじゃくる おまえが なおさらいとしくて

 

 「さよなら」が言えないのは、「おまえ」じゃなく「俺」なんだ。そんな弱い自分に

大切な何かを捨てて、見ないふりをしていた。それを、人は「青春」と呼ぶ。なら、自分にも「青春」はあった。確かに、あった。

 

 でも 悲しいのは おまえひとりじゃない
 ねぇ わからない 何が二人をひきさいた

 

 そう、「悲しい」のは、いつも、どんな時も「一人じゃない」。みんな、それを簡単に見せないだけ。でも・・・あの時、「同じ気持ち」でいたのに、悲しいのは、一人じゃなかったのに、言えなかった。それは、運命だった。「運命」。それは、何。あの人は、今、幸せだろうか。

 ただ あの頃に 二度とはもどれない

 そうして、人は年を重ね、自分を年を重ねた。あの頃に戻れないことは重々分かっていて、戻ろうとも思わない。けれど、そこに、自分を見てくれた人が、確かにいて、自分も、同じように見ていた人がいた。それが、自分を支える。

 ・・・そんな事を、ふと思わせてくれる、松山千春「写真」。自分の中の名曲。こんな曲を書き、歌える、この人は、間違いなく昭和の「面影」。そして「天才」。いつまでも紡いで欲しい。昭和の「心」を。

 こっそり心で歌いながら、つぶやきながら生きていきたい。「あのとき、ありがとう。」と。