内部告発問題で激震の“ヤンキー先生”義家弘介文部科学副大臣、過去の「ツッコミどころ」が噴出する!?

 何度も言うが、教師なんて普通の「大人」の一人。偉いわけでも、凄いわけでもない。たまたまそういう「教育課程」を選び学び、仕事にした人というだけだ。清濁併せのむというが、「ほめられる」事だけをしてきた人生の中で大人になった大人なんて、そうそういないだろう。・・・誰かを変えるとか誰かを救うとか、そんなたいそうな事は教師ごときに出来ないし、出来ると思ってはいけない。伝えるだけである。自分の失敗・感動体験を。それしかできない。でも、今の40代の教師は、それすら「伝える」のは駄目ではないか、という。ふ~ん。じゃあ、それこそ、教師として教壇に立つ意義は?学問を教えるだけなれなら、悔しいかな、身近にも、もっと高学歴の同僚や仲間もいるだろう。君たちよりも。・・・と思っていたら。

加計学園獣医学部新設計画を巡る内部文書について、ヤンキー先生こと義家弘介文部科学副大臣が「職員が内部告発した場合、国家公務員法守秘義務)違反に問われる可能性がある」と述べたことで、大きな反発を買っている。

 これには、法解釈の専門家からも「違反に該当しない」「告発者への圧力だ」とする反論が噴出、世間からも「すっかり政権の犬になってしまった」と落胆の声も多い。オカルト系タレントの江原啓之には「正義を貫く義家先生の姿にかえっていただきたい」とまで言われてしまっている。

 この状況で一部では「ヤンキー先生」にあったネガティブな話が蒸し返されるのではないか、ともささやかれる。義家副大臣は「言動の矛盾」や「問題発言」が多く指摘されていた過去があるからだ。

「交際していた女生徒に注意した担任の頭に火をつけて燃やした」

「高校時代の野球部で監督を殴って中退になった」

 本人が過去に語ったとされる、こういった不良だったエピソードは事実であればトンデモない話だが、さらに「教師時代に高校1年生の女子生徒と交際、妊娠となり結婚したと言っていたが、教育委員になると『女子生徒が学校を中退してから交際を始めた』と発言に変化した」とか、「貧しい生徒のために基金を設立したとするが、学校にそんな基金があったという話が見当たらない」などといった発言の信ぴょう性を疑う声が多数あった。

「著書で母が会いにきた話を書いているが、雑誌では当時、すでに母が死んでいた話をしている」

「父に復讐するため、空手を10年習ったというが、流派や写真ひとつ公表していない」

「殴りかかってきた生徒を退学させないために先に殴った、という話をする一方で、ほかでは『生徒を殴るわけにはいかないから机を殴って手を骨折した』と話している」

「教え子がくれたネクタイピンを常に身に着けているという話をしていたが、ほかではそれが金のネックレスになっていた」

ノストラダムスの大予言は携帯でネットができるようになって子どもが大人を信用しなくなったことだとしながら、自身は有料の携帯サイトを教師時代から運営していた」

横浜市教育委員であるのに、家庭教師派遣業者のCMに出演していた」

 こういった疑いの数々を個別に検証はしていないが、議員になる前は「元不良の教師」というキャラを強調してメディア出演を増やしていた人物でもあり、いくらか誇張があったとしてもおかしくはないかもしれない。ある政治記者は「そもそも義家に期待する方がおかしい」とまで言っている。

「義家を担ぎ出したのは、2007年の参院選候補にした第一次の安倍自民党で、だから最近になって“安倍政権の犬”になったわけではなく、最初から安倍(晋三)首相に飼われた犬だったんですよ。安倍首相は教育改革を大義名分とした教育のビジネス化を進めていたから。その後の学園問題も、その延長線上にあるわけです。義家はもともと政治家になりたくて仕方なかった人物で、日本テレビの情報番組に出ていたときに共演の政治学者、福岡政行に『誰でもいいから政治家を紹介してください』としつこく頼んでいましたよ」(同)

 議員になってからの義家副大臣は、週刊誌に高級風俗店通いや元共産党員の経歴を報じられ、兼業禁止の公設秘書に芸能プロ幹部を使っていたという話もあったから、江原の言うような「正義を貫く先生」という話自体も疑わしくなる。(2017年6月20日 23時30分日刊サイゾー

    という記事もあった。中には更正する人間もいるだろう。でも、それが全員で、全員の先生が、「聖職者」で、とまでなると、「?」。

 「正義」を振りかざすものほど信用してはいけない。それは古からの教えだ。なかなか、この立場では子供に直接は言えないが。「正義」とは、その立ち位置により全く逆の「価値観」すらあり得る、危ういものなのだ。

 義家氏に言いたい。あなたの成功はあなたの努力の賜だろう。だからこそ、今こそ頭を垂れ、欲や見栄などから離れ、初心に戻った言動・行動を考えてはどうだろう。もし、その「初心」というものが、本物だったならば、という条件付きだが。

 

良い学校の条件とは。それは「我慢」ができる集団かどうか。

 たくさんの学校を歩いてきて見えてきた良い学校の条件。平和で、いじめが無く、学力も向上し、仲間どおし、互いに認め合い切磋琢磨して、最後には、すべてのことが「良い思い出」に出来る生徒集団・学校。それは、どんな学校なのか。

 一口に言えば生徒一人一人が「我慢」できる学校である。我慢を覚える学校である。嫌いなタイプ(と思っていた教師)の授業も(我慢して)真面目に参加し、人間関係でも、自分の主張の譲るべき所を考え、人間関係を構築でき、ルールを破るラインを把握し、我慢し・・・など出来る生徒集団の学校である。

 「我慢」ばかりじゃないか、と思うかも知れない。でも、大多数の幸せの行き着くところは間違いなく、こんな学校である。そして、往々にして、「そんな学校」もそればかりではなく、その「はけ口」が、体育祭・学校祭など自分の所属感を感じられる行事で、その思いを作り出す。(まあ、それでも、あえて我慢させる場面もあるだろが)。

 だから、前述の「我慢出来ない集団」がある程度の人数をこしらえると、学校は規律を失い、「弱肉強食」の場になってしまう。そこには「おとなしく」「真面目な」生徒の居場所は、ない。

 自分が中学の頃、45人学級・1学年15学級という超マンモス校だったが、授業中は、教師の話を聞かず内職、道徳の時間は対立がエスカレート、あわや殴り合い、廊下では、授業をボイコットした輩が、段ボールで作ったボールでサッカー。嫌いな生徒指導の先生をめがけて、急に走りだし、クビにラリアット。泡吹く教師を見て嘲る。そんな学校。今も昔も教師は無力である。

 だからこそ、「体育系」ではない教師こそ、その規律の大切さ、荒れる前の集団作りの大切さ、怖さを学ばねばならないのだ。教師も生徒も「幸せな」場所を作るために。

 幸せは、その時にはその大切さ、貴重さがわからないものだ、と言われる。学校もそうなのである。特に思春期の、どちらにも流されやすい時期にいる大人は、危機感が必要なのだ。そして、その貴重な「共同作業」に真剣に参加した生徒には、心からすべての想いを注いで「感謝・返礼」をしなければならないのだ。そういう意識が、今の若い教師にあるのだろうか。・・・まあ、我が職場も、来年4月にその度量が試されそうだが。

学級崩壊させる事を喜びとする小学生。対処の仕方は?

 嵐が過ぎ去って、安寧の日々は、1年で崩れ去るのだろうか。来年の4月に入学してくる現6年生の噂はそうそうたるものだ。

 まず、その主たる男子児童。母子家庭で、母親を奴隷のように使っているという。その子は、頭がきれ、「教師はどうせ叩けないから」と、わざと怒らせ、その様子を見てふざけ、笑い、そしてついに教師が「おまえなんか授業受けなくて良い」と怒ると、「受けなくていいってよ」と子分5,6人連れて教室から出て好き放題。そのクラスは担任という芯がおられ、規律が壊れぐちゃぐちゃの現状。

 その主たる子が小学校1年生の時、ある女の子が、その男の子を注意したところ、よほど頭に来たのか、それから毎日のように、性的な言葉を浴びせ続け、下着を脱ぐように言ったりと、小学一年生と思えないような行動言動を続け、しまいにその女の子は心を病み登校できなくなった。その学級ではない保護者は、自分の子供に関わらなかったことにほっとしながら、そんな現状を教えてくれた。

 中学校に入り、そんな子供を改心させられるか。それは、多分「否」である。先は暗い。教師に「武器」はないのだ。入学当初、中学校は今まで通りではない、と、やや強い圧の中、学校生活をスタートしても、その子以外の保護者が必ず、「厳しすぎる」とクレームをつける。そして、手足をもがれ、学級・学年が荒れ、収拾がつかなくなる。そして学力向上どころではなくなり、受験に失敗する。あるいは、思い描いた高校をあきらめる事になる。・・・そのクレームをつけた自分たちにも火の粉が飛んでくるのだ。

 また、あの時のような「時代」がくるのか。憂鬱になる。あの時とは違う手法で、あの時とは違う結果が出せるのか?

 そう考えていたら、当該学年になりそうなある教師。「来年、担任はしない。授業はもってもいいけど、責任をとらなければならない担任はしない。」という。まあ、3年前にも大変な思いをしているし、分からないでもないけれど。さて、自分は?そろそろ副担でもいいか?揺れる自分も間違いなく存在する。きれい事ではすまないから。

 実際、入学してみないとわからないが、こういう話は、意外と真実に近い。火の手のないところに煙は立たぬ、なのである。やれやれ。

広がる高校間格差。無間地獄のスパイラルはどこに行く?

 経済格差→高校間格差→広がる格差。負のスパイラルは続く。

 

 一時ほど騒がれなくなった「学歴」。「学歴信仰」は無くなったのか。事実は否である。確かに、「学歴→安心」という保証は無くなっているように見える。しかし、保証は無くなった代わりに、学歴格差→可能性の格差は広がるばかりである。

 あるE高校。Gランク100点そこそこが合格圏である。高校の説明会では進学率90パーセントという。だが、調べてみると、就職者のほとんどはアルバイトやパートであった。仕方なく多くの生徒は大金を出して「専門学校」へ「進学」し、猶予期間を得ようとする。それが「90パーセント」の本当のところである。

 話は変わるが、現在の北海道の札幌圏の高校入試は一部の(札幌南・北・西・東)という超進学校へ出願者が殺到し、他は定員割れか店員すれすれ、そんな傾向が年々強まっている。それには、前述のような「あの高校へ進学」したあとの先が見えない「不安」がそうさせているのである。学力がある程度あり、教育に関心のある家庭ほど、その選択肢が「狭い」ことに気づき、おののく。

 そう言う意味では、上位校と底辺校の高校間格差は広がり続け、そこに漂う「緊張感」の質の違いも大きく広がりつつある。

 では、その格差の広がりはどこに起因するのか。それが「経済格差」だというのは公然の事実で、マスメディアが注目する何年も前から「良識ある教師」の中では語られてきた事実でもある。「勉強がわかる」「勉強が出来る」。その為の土台は、実は、多分、学校や教師の影響はあまり大きくなく「家庭」に因る。中学の「成績を左右する」のは、実は小学校4年生からの家庭での勉強習慣や質が大きく影響をする。「学校」の勉強だけでは早晩行き詰まる。それが今のカリキュラムなのだということは意外と知られないし、受験とあまり関係のない小学校の大部分の教師すら、考えたこともないだろう。小学校4年次に教科書に出てきた問題だけをやる子供と、家庭で質の良い問題を「親子」で楽しみながらする子供。国語=漢字練習という子と、読書の他に質の良い問題集を「本代わり」に読み、問題を解く子供。差が出ないわけはない。そして、そんな事に付き合える家は、そんなに多くはない。ましてや、教育にお金をかけられる家庭とそうでない家庭の、その差が中学の1年生中頃から出始め広がる。この段階で「どう勉強していいかわからない」子供は、どんどん無間地獄のようなスパイラルの中にはまりこむ。そういう子供をなんとかする、それが実は、授業のなかでは、どうすることも出来ないのだ。(積み重ねた力・意欲・学習できる環境。)経済的に苦しい家庭の親は、そこまで子供と一緒にいれない、出来ない。それが学力の格差=経済格差と言われる正体だ。そして、その差は、高校選びに直結する。子供自身の「意識」「意欲」にも差が表れ、もちろん「準備」の差も大きくなる。そうして、「選ばれる高校」の格差も広がり、その高校を選ぶ生徒の質も大きく違うものになる。それが高校間格差の正体なのだ。そして、それは、今や大学間格差に結びつき始めている。「あの大学に行って、そのあとどうする?」である。そういう、中学教師にとっては身近な課題に、「受験と直接関わらない」小学校教師は無頓着である。自分の学級、自分の授業だけを見て、自己陶酔・自己満足(それすらしない人もいるかもしれないが)しているうちに、子供の未来は狭められているというのに。

 ところが、その格差に、「部活動やりたがり教師」が輪をかけるのである。前述したように、札幌圏内では札幌南・北・西・東のいわゆる4校は、熾烈な競争(不合格になった時の受け皿がないだけに)の末、入学できる「超進学校」だ。しかし、そこで教鞭を執る教師は、そんな進学校だけに勤めている人ばかりではないのだ。いわゆる底辺校に勤務し一日中部活動を教えてきた教師が赴任してくることもある。そうすると目も当てられない。やることは底辺校と同じ。生徒が従順なだけにやりたい放題。例えば、学校で決めたH大のオープンキャンパス全員参加というルールも、同じ日に、今年から全員参加の合宿をするので、H大のオープンキャンパスに参加することは許しません、と堂々とルール無視をする。保護者は、その部活の人数も少ないので「声も上げられない」。(声を上げれば、誰の保護者なのか、すぐにわかり子供が嫌な思いをする可能性があるとか)。なにをかいわんや、である。子供の未来を、自分がやりたいという「欲望」の犠牲にする。ルールを守らせる教師が平然とルールを破る。

 生徒の歩く道のすぐ横にある「負のスパイラル」。それは、身近な教師その人が作っているのかもしれないのだ。

 

 

  

お友達教師の「無責任」という害悪。

 若い教師が陥りがちな「生徒に寄り添う」=「生徒と同レベル(お友達)」

 ここには、意識レベルでの大きな問題点をはらむ。

1、大人として生徒の前に立つ「責任」の放棄

2、生徒に迎合=肝心なときに「お友達以下」になり、生徒集団を管理出来ない。

  →「何を今更」で、指導が響かない。→いじめなどを生む空気の醸成

3、教師は「大人」であり、子供世界の外枠に存在し、子供と「お友達」になれるわけ

  はないという事実を理解していない。

 そして、そういう教師が年齢を重ね、中堅になり、という、ある意味「劣化」が今学校現場で進もうとしている。

 例えば、席替え。教師が決める。(席全部だったり班長のみ決めあとは生徒だった りするが)とくじ引き。どちらかいいか。私は前者である。班長などを教師が決めることで、何を教師が求めているか、その人物像を考えることで、考えさせることが出来る。また、班は、望ましい集団作りの基礎である重要性とともに、ヒエラレルキーをあえて作ることで、情報通路を作ることができる可能性を持つ。他に、学校は、生徒にとって「すべてが思うようにいくわけではない」という社会性(社会耐性)を考えさせる事に繋がる。バランスが大切なのはいうまでもないが、すべての子供に平等な「安全」「安心」の場を提供するためには、バランスのとれた「管理」が必要なのである。

 今、若い教師に「くじ引き」でしか席を決めない教師が目立つ。その姿勢に、学級崩壊やいじめにつながる「雰囲気の醸成」への予防という姿勢のなさに恐れさえ感じる。管理教育=悪という情報操作世代の危うさであろう。席替え一つにさえ「神経を使わなければいけない」時代であることに、気づかなければいけないのだが。部活動の多くに時間を割き、神経の使いどころの勉強をしない、これからの「学校現場」の行く末は明るくはない。安心・安全な場所である学級経営(学級作り)は西遊記のお釈迦様と悟空のイメージなのだが。

 それにしても、何か事が起こると「担任」が人身御供にさらされる。でも、担任を拒否したり、その実力がない、してはいけない教師と給料は同じである。担任手当などがあるわけでもない。しかし、身につけなければならない力量は多岐にわたり、これからは道徳の授業の準備等も加わる。(現実担任業務である)加えて保護者対応。(特にPM対応力)。もちろんいじめ防止力も。(実は、それは非常に偶発的要因に左右され困難を極めるが)。そして、それを突き詰めたくなる人ほど、管理職に選ばれない。(まあ、なりたいとあまり思わないけど、ブラック過ぎて。)

 担任は、それこそ、「生徒の成長に携われるロマン」や「やりがい」と言った「金銭」以外の、ある意味ボランティア精神みたいなものに、実は学校が、生徒の安全・安心が支えられている事を知って欲しいと思う。(成果報酬さえ担任は冷遇される。)

 悪しき平等主義、世の中の不条理が、現場のシステムに凝縮されている。繰り返すが、事が起これば「担任」が人身御供にされる(もちろん、その人の力量に問題がある場合もあるが)昨今、担任をやりたがらない教師が、一昔前より激増している事に警鐘を鳴らしたい。(もともと、技術を伝承するということに不向きな職種ではあるのだが。)    

続く教師の不祥事。その責任は教師(学校)だけにあるのか?

 名古屋の小学校教師だったか、北海道の女子中学生に携帯で自分の胸の写真を撮らせ送らせた罪で逮捕された。最近、そんなニュースばっかりで、子を持つ親としても「目のやり場」に困ることが多い。

 でも、学校に限らず一定数の割合で「そんな人」はいる。それが、教師であるだけ、といってしまうと語弊があるか。でも、援交にしろ何にしろ、そういう行為をする教師は言語同断だが、そういう行為に参加する17歳とかの「生徒」の方に責任はないか。自分の子供がそういう行為をする前に、いろいろ類似行為があるはずで、その親の責任はどうなのか。なぜなら、普通の生徒は、自分の「胸」の写真をとって、知らない大人に送らない。つまり、その生徒も「普通の感覚」で生きてはいない、ということ。その家庭には、子供の行動になんら関心を持っていなかったということ。みんな同罪なんだ。教師だけを責めても、意味はあまりない。この時代、聖人君子なんて、いないのだから。

 と思っていたら、福島県南相馬市の市立中学2年の女子生徒(14)が今月11日、自宅で自殺していた件で、学校側は報告をあげていたのに、教育長が、もみ消そうとしたという、摩訶不思議(普通、逆でしょう?)な事が起こっている。教育長は「今までの人生でそんな経験がなかったので」とコメントしてる。なんとまあ、幸せな教員人生だったんだろうと思うが、実はありがちな事なのである。

 教育長になる人は40代前半で管理職になる。つまり10年そこそこで「教育の場」から離れるのである。その最中も、早々と担任を離れ、教務などその「準備」の役職に就いている人ならば、生徒指導の経験が皆無であることもあるのである。

 ちなみに教師を指導する「都道府県教育課の指導主事」(行政職)の人達は、教育現場に立っている期間はもっと短い。実質、7~8年しか、現場に立たない。さすがに、そんな「あからさま」なシステムは、何かと不合理なので、最近は、なり手が少なく、「研究会」と称して一本釣りの場を新設しようとしているらしいが。

 昔は、女子生徒が、若い先生の家に遊びに行きたいというと、その保護者は、ほほえましく送り出しながら、必ず3~4人の複数で行かせたものだ。それは、「疑い」ではなく、「男性」の「性」を、よく考え、わきまえていたからだろう。

 そういう世の中への「警戒」。それが、保護者の中にも少なくなり、事が起きるまで何も考えない「呆けた」人が増えたのではないだろか。あるいみ、教育現場に関わる人間の劣化が引き起こしている問題なのかも知れない、そんな事を思ったりもする。

 

 

教師の傲慢と勘違いが生む悲劇。「めめしさ」、何が悪い?

 「子供を変える」「子供を救う」。さすがに、今、公然とそんな事を言う教師はいないだろう。「勉強が出来ない子を何とかできるように」。これは、ちょっと見、当たり前の「目標」だが、実は、我々、教師の「傲慢さ」かもしれない事を、多くの教師は考えない。また、そう言う教師ほど、その「出来ない子」を、最後まで、「救おう」ともがかない。そういう教師ほど、最後は「親」のせいにする。(ある意味、親の影響が大きい事は、学力格差と経済格差の調査で明らかになっているが。)

 「学校」は、他人様の大切な「子供」を預かる場であり、あずかる人が「教師」なのだ。多人数の共通幸福を設定し、「安全」「安心」の場を追求し、子供にそれを強いる、そういう役割の人なのだ。一介の教師が、人間的にも完璧では当然あり得ない大人の一人である教師が、子供を「救う」「変える」なんて、おこがましいのだ、ということを、30代後半に考えた。変えられるのは、学校という場の「環境」でしかない。それすらも、ある一定の条件が重ならなければ、至難の事なのだが。

 

 

 

 先日、試験の採点をしていて突然、40代の同僚が、生徒指導のあと、微苦笑しながら、今、千春の「恋」の心境だな、と漏らした。当然、30代前半の教師は「?」。千春も剛も、「女々しい」時が一番良かった、と言う。思わず、笑いながら(しばらくぶりの楽しい時間だったので)千春の「女々しい」おすすめの歌として4曲「涙の向こうに」「貴方だけ」「父」「私を見つめて」を勧めた。30代教師は、ネットでそれらを調べ、ちょっといいですか、と居残り(その時20:30)の同僚に断り、「父」をパソコンで流し始めた。・・・とてもほほえましい光景のようだが・・・ここに、今の「教師」の目の危うさを見た。「女々しい」という言葉を使った教師に「悪意」はなかろうが、「女々しさ」の何が悪い?と頭に浮かんだ。人間、みな女々しい感情、女々しい経験があるのではないのか?そんな気持ちが。この人達はそんな経験、「男男しい」経験しか知らないのか?と。つまりは、「女々しい」部分を持つ生徒の「複雑な」心の揺れを、多分、「闇」としか感じられないのだ。この子は「闇」があるから。そう訳知り顔で語る教師に、違和感を感じ得ない。「女々しさ」の中にこそ、「伝えたい・伝えられる」気持ち、共感を見つけられる事もあるのではないか。・・・それでも、まだ、「千春」「剛」を話題にする40代がいることにほっとしたのも事実。もう30代は、「?」なのだから。