傷だらけの西城秀樹逝く。最後まで強くあることに努力して。

         ~障害の残る姿でもなお、ステージに立ち続けた強さの根源は。

 歌手の西城秀樹さんが5月16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で亡くなった。63歳だった。1979年には「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で日本歌謡大賞などを受賞。高い歌唱力とともに派手な衣装とパフォーマンスが話題を呼んだ。郷ひろみさん、野口五郎さんとともに「新御三家」として、多くのファンに支持された。48歳だった2003年に脳梗塞を発症。56歳だった2011年に再発していた。

NEWS 2018年05月17日 12時58分 JST | 更新 2018年05月17日 14時01分 JST

 

 もろ西城秀樹世代である」。「傷だらけのローラ」からしばらくして西条秀樹を知ることになるが、なぜだか、「傷だらけのローラ」という題名とその歌詞が耳について離れなかったことを覚えている。晩年の秀樹は、まさに「傷だらけの秀樹」。それでも、ステージに立ち続け、激痛の伴うリハビリ・筋力トレーニングに励み、戻らない発音や運動能力を、最後は、「ありのままを見せ」、同病の人達の「勇気」になりたい、とステージに立っていたという。その話を聞いて、「強え~なあ」と思った。人間誰しも、人に弱みを見せたり、かっこ悪い所を見せたい、そう思うのだと思っていた。自分がまさにそれだから。それは、何十年の応援してくれる「ファン」のためもあるのか。幼い3人の子供や妻のためでもあるのか。「戦う姿」を見せ続けることに、意味を見いだしていたのか。

傷だらけのローラ 歌詞
ローラ 君は 何故に
ローラ 心を とじて
ローラ 僕の前で
そんなにふるえる

今 君を救うのは
目の前の僕だけさ
生命(いのち)も 心も
この愛も 捧げる

ローラ 君を 誰が
ローラ そんなにしたの
ローラ 悪い夢は
忘れてしまおう

この腕に おすがりよ
今 僕は 狂おしく
祈りも 誓いも
この愛も捧げる ローラ

祈りも 誓いも
この愛も捧げる ローラ
ローラ ローラ……
祈りも 誓いも
この愛も捧げる ローラ

 晩年は、その病故、日常の中に、常に「死」を覚悟・意識しない日はなかったろう。そんな彼の胸中にあったものは、残していくかもしれない「子供」達の事だったかもしれない。

 親のとり、子供は「人生」のすべて。子の成長は、「自分の歴史」。子供を守り、子供の無垢は瞳に守られ、時を重ね、親は年老いていく。定めと言えば定めなのだが、無情な時間の流れ。子供を授かり、その乳の匂いを側で感じ、あまりの愛おしさに、自分の顔をほっぺにくっつけたまま離れがたくなり、苦しくなる。仕事にも行きたくなくなる。すべての時間が惜しくなる。子供も大小の病気を乗り越え、その時間も「親」は「歴史」として記憶する。自我の芽生えとともに、時に気弱になることがあれば、大きく叱り、涙も流す。そして、成年になり、社会に出て行く様を心配し、でも、その横に自分の背を超えた横顔と、その片隅の変わらぬあどけなさを、見つけ、その行く末を見届けたいと願う。そんなさなかの出来事だった。さぞかし、無念で悲しかったろう。でも、どこかに、「戦う姿」を見せ続けられたことに、「わかっただろう、生きることが」と、思っていたか。永遠のロックシンガーに献杯。合掌。

50代“負け組”3000人の共通点 人生の勝ち負けを決める基準とは?

~自分は「勝ち組」、それとも「負け組」?

SPA!が歩んだ30年の間に、日本は「一億総中流社会」から勝ち組と負け組が混在する「格差社会」へと変貌を遂げた。ウイルスのように増殖を続ける負け組たち。そこで今回は「自分は人生の負け組だと思う」と回答した50代の男性会社員を対象とした3000人にアンケートを実施。見えてきたのは「負け組」特有の意外な共通点だった!

◆50代の背中から見えてきたものとは?

「ゆっくり仕事をしても午後にはやる作業がなくなる。営業で現場を飛び回っていた頃が懐かしいです」

 機械メーカーに勤める安原寛治さん(仮名・52歳)は現在、総務部で保養所施設の管理業務を担当。肩書はヒラ社員。年収740万円だが、同年代では最低レベルだ。安原さんが負け組50代に転落する契機は45歳のときだった。

「年下課長に噛みついたら、地方の営業所に左遷されました。今は東京本社勤務ですが、自宅は大阪なので、社宅に単身赴任。同じ社宅に住む上司の子供に『オジさんなのにペコペコしてる』と言われ、本当にツラくなりましたね」

 12歳になる子供のため、会社を辞めるわけにもいかない。もはや「サラリーマンとして負け組かもしれない」と公園のベンチに座って話す安原さんの背中からは、物悲しい哀愁が漂っていた――。

 年収740万円にもかかわらず、安原さんはなぜ「負け組」と感じてしまうのか。今回「負け組だと思う」と回答した50代サラリーマン3000人を対象にアンケートを実施。その結果から導き出されたのが下記の平均像だ。

◆<負け組50代男の平均値>
※従業員数50人以上の会社に勤務する50代サラリーマンで都市部在住の人を対象に「あなたは負け組だと思いますか?」という質問をぶつけた。その中から「負け組だと思う」と回答した3000人を抽出し、結果を算出

●一戸建て所有率 51.7%
●既婚率 79.3%
●子供の数 1.65人
●貯蓄額 325万円
●通勤時間 45.2分
●最終学歴 偏差値60未満の大卒
●平均年収 618万2000円

●負け組転落年齢 38.9歳
(20代以下…17.9% 30~34歳…17.0% 35~39歳…16.4% 40~44歳…20.9% 45~49歳…13.1% 50代…14.7%)

●負け組三大マインド
1位 低収入 43.9%
2位 低肩書 18.4%
3位 低貯蓄 14.7%
4位 独身&孤独 12.5%
5位 病気 4.9%
6位 非モテ 1.6%

 平均年収は618万2000円で51.7%が一戸建てを持ち、8割近くが既婚。決して負け組とは言えない平均像が浮かび上がったが、実情は違う。経済ジャーナリストの荻原博子氏はこう解説する。

「40代までは、がむしゃらに働いていた人ほど収入や肩書の相対的な低さは気にならない。むしろ『いつか出世してやる』という希望を持ち、積極的に生きていた。でも、50代になって上がり目がないことを認識したとき、他人に比べて低収入、低肩書、低貯蓄という現実が一気に重くのしかかり、一層の負け組感を増幅していきます」

◆収入、肩書、貯蓄……3つの“低い”が、負け組を決定づける

 3000人のアンケート結果は、人生の敗北感を突きつける負け組マインドは家族や健康、モテではなく、低収入、低肩書、低貯蓄という3要素だと示す。そして、この“新・三低”とも呼ぶべきマインドが生まれる分岐点が平均38.9歳であることも判明した。この数字について、健康社会学者の河合薫氏は次のように指摘する。

成果主義が浸透しつつあるとはいえ、日本企業は入社すれば立ち回り方次第で、本人の能力がイマイチでも出世して勝ち組になるチャンスが与えられます。だからこそ、アラフォーまでは誰もが夢を見られる。一方、それを境にいかんともしがたい現実が見え始める。年下上司が現れ、会社に居場所がなくなり、セカンドキャリアの研修会に強制参加。出世の夢から急速に醒めるのがこの年齢です」

 来年結成30周年を迎える人気バンドのミスターチルドレンは「未来」という曲の中で「今僕の目の前に横たわる/先の知れた未来を/信じたくなくて/目を閉じて過ごしている♪」と歌う。

 もはや先の知れた未来に目を背けず、どう生きるかが負け組50代にならないために必要なのかもしれない。<2018年5月15日 8時52分日刊SPA!

 

 定年延長や年金給付の繰り上げが話題になる昨今。50代のサラリーマンの悩みは深い。50代の「平社員」。どの職業も悩み深き年齢である。出世を含め、何かを諦める。体力も衰える。「やりがい」の維持もエネルギーがいる。いろんな矛盾が具体的に見える。自分の人生の終焉を意識しだし、「有意義な人生」「第2の人生」という言葉に、ある意味怯えるようになる。親が50代の時、ふともらした「早く辞めたいなあ」という言葉。バリバリの仕事人間。病をしたあとも、そのバリバリ感が彼を支えたのだろう。その父の言葉である。今、その言葉を自分が噛みしめている。ただ、働かなければ生きていけない時代。ただ、その為だけに「働く」。そう、それだけのために「死ぬ」まで働かなければいけないのか。そんな事も考える。疲れる年齢50代。

●一戸建て所有率 51.7%
●既婚率 79.3%
●子供の数 1.65人
●貯蓄額 325万円
●通勤時間 45.2分
●最終学歴 偏差値60未満の大卒
●平均年収 618万2000円

 これを見て、考える。ここで当てはまるのは、2、3つつぐらい?上記の項目はどう理解すればいいのだろう?それでも、自分が「勝ち組」とは、とうてい思えないなあ。

 要は、社会の中で、どうな立ち位置にいれるかどうか、という「現実」に、考えさせられるということなのだろう。

 自分の今の一番の願いは、子供達の行く末、努力の末、社会で生きていく「力」や「心」を見つけ、巣立っていくのを見届けられること。それができれば、いいかなあ。それと、そんな自分の「歴史」を理解してくれる「妻」と時間を共有できること。それができれば、トータルで「勝ち組」になれるかなあ。

 それにしても、こんな公然と「勝ち組」「負け組」という言葉が語られる、今の社会は息苦しくないか。・・・それとも、言葉はともかく、その考え方は昔からあったのか。

 

正体不明のストーカー。学校の限界と警察の無力、保護者の無責任化。

~犯人は誰だ?→校内で起きないこと(被害者の安全)→何も変わらない。

〈ケース1〉

 ある時期のある学校のケースである。意外と一般的なよくある話だが、ここにいろんな「闇(限界と勘違い)」がある。

 始まりは、秋口、部活動の人間関係のもつれから、部活動後、更衣室の被害者Aの鞄に誹謗中傷の手紙がいれられる。顧問は、すぐに部員全員を集め、事実確認と首謀者は誰か、を確認するミーティングをする。が、犯人は、わからず、顧問はしばし部活動停止。当該学年は学年集会を行い、記名アンケートをする。→効果無し。

 その後、ラインを使っての誹謗・中傷が起き、数ヶ月も続くため、学校側は、警察の協力をあおぎ、加害者を特定するよう被害者家族に提案する。被害者家族は警察に届け出るが、警察は「様子を見る」の1点ばり。その後、しばらく小康状態が続くが、年が明け、学年があがり、再び、同様の事案が起きる。今度は、左手で書かれたような文字で誹謗中傷の手紙が、自宅に、そして、近隣の同級生やその友人の家やその周囲のものにはさまれたり、被害者家族の自宅のドアの鍵穴に瞬間ボンドが塗り込まれたり、ペンキで嫌がらせをされるなどの事が起きる。母はノイローゼ様になり、子供は、学校に「行きづらく」なり、遅れてきたり、休む事が多くなった。

 この事態を受けて、警察は「事件化」することとし、可能性が疑われる「数人」の生徒の指紋を任意で取り、事情を聞く。

 その間、学校は、何度目かの学年集会で、情報提供の協力を求めつつ、被害者の生徒に寄り添うことを話す。→その翌日、再び、「学校は何も出来ない。」「あんまりあおるなや、絶対に警察にもわからん」などの手紙が、同様に、被害者家族自宅に届く。

 その後、保護者集会で事実を伝えるも、同様に、2~3日後、それを揶揄する手紙が届く。→その後、警察の動きも知らされず、特に進展無し。

 周辺住民の協力や防犯カメラの設置するも、今度はどこからか同様の手紙が郵送される。保護者集会では、「いつ自分の子供も同様の事が起きるかわからない。詳細を教えて欲しい」「犯人の目星がついていると子供は言うが、誰なのか」など、半分興味本位の発言もあった。その間、その手紙や、その報告は昼夜・夜中問わず、学校・他人の携帯に届くようになった。

〈学校・警察・地域の闇〉この事案から思うこと。〈学校・警察の限界〉

学校側→・この時起こっている事案はすべて学校外である。(きっかけは学校内だが)

    ・学校には、加害者の揶揄するように、加害者を特定する調査の権限は非常に

     少なく、不可能に近い。(その少ない可能性も、小中の中で培われた生徒の

     教師・大人への信頼に因るところが大きい。)

    ・きっかけは、部活動顧問の力量不足もあるだろう。(管理能力)。時には、

     それを自覚していない面々も当然いる。

    ・当該担任は、被害者の保護者の気持ちに寄り添うあまり、他の生徒へ心行か

     ず、否定的な(この中に犯人がいる)イメージで生徒を見るようになった。

     〈たしかに、これ以上打つ手は無しだが・・・・。〉

警察側→該当(被害者に濃厚接触した)生徒・家族への事情聴取、指紋捺印はする。照

    合するするが該当せず。ここで、もちろん、自作自演を学校側も可能性として

    否定できず、被害者・家族へも指紋捺印させる。被害者や近い立場の人々にし

    たら、動きが遅いし、情報がもらえない。この事案も、最初の「相談」の時、

    ライン会社へ動いて加害者が特定できれば、もしかしたらここまで事案が大き

    くならなかったかも知れない。半年後ライン会社に協力を要請するも、解決に

    繋がる情報をもらえず。その後は音沙汰無し→打つ手がないのだろう〉

被害者→遅刻したり、その理由もさまざまで、当然の様子で学校へ。体調不良で遅刻す

    るも部活では普通に活動。髪の長さなどの校則を違反するも、同様に指導でき

    なくなる。(そのことには現状から担任触れることできず)

加害者→様々な様子・行動からも特定できず。半年にも及ぶ執拗な「ストーカー行為」

    の背景に、どんな「事件」があったのだろうか。その存在すら許せなくなった

    としたら、どんな解決が可能なのか?

 

 この〈ケース1〉では、近隣の関係者でも、無関係な部分が大にしろ、「興味本位」のワイドショー的な感覚を、正しそうな声でかき消し、主張する。中には、本当に正しいと思い、被害者・家族が躊躇する中、行動指針みたいなものを、被害者に渡したり、警察に直訴したりと「困ったちゃん」が現れたりしたという。学校には「限界がある」が、それを言えないがため、保護者も中途半端な味方しかできない。学校には調査権限もなく、学校外の事件を、教職員が、見張り・見回り・調査することは、不可能に近いし効果的ではない。それなのに「学校はなにをしている責められても、無意味・無駄である。

 唯一の「警察」も、人権上、一番効果的な、全生徒の指紋調査ができないため、こういう事例は、解決に近づけない事が多い。

 結局、この悶々とした事案を「もんもん」とさせているのは、人権という大仰なものなのだ。人を守る為の法律が、人を苦しめる矛盾。

 正しいことを行使できず、ごまかしで自己満足する学校・警察、そして聞くだけの教育委員会

 こんな事が、近々で起きたなら、どうすればいいのか。もし戸建てでないなら、引っ越し・転校である。これは、「負けではない」。経験を力にかえるための「撤退」。親も子もそう考えるべきだ。私も、周りは考えすぎだと笑ったが、中学卒業までは、前述の理由で、賃貸暮らしを選択した。では、戸建ての家族は?逃げるわけには、なかなかいかない。鈍感になるか、戦うか、どちらかしかないだろう。ただ、叩くにしても、警察は、こういう事案には、実は無力で、「大きな事故」でもないかぎり警察主導で解決できた例はあまり多くない。学校には限界もある。管理職や学年主任の力量・価値観にも大きく左右される。味方は、自分たちしかいない。が、もしかしたら、犯人は自分の子供の自作自演であったり、さっきまで心配顔で隣にいた隣人(同級生)やその保護者かもいれない。・・はたまた、被害者と思われる本人あるいはその保護者が加害者という可能性もあるのだ。・・・

 被害者に寄り添いすぎた挙げ句利用される。被害者に「親身」になる。そこに深い闇が手を広げて待っていることもあるのかもしれない。

中3に避妊教育…適切? 都教委「性交渉助長恐れ」 識者「行動慎重になる」

~「そういうこと」を人はいつどうたって知ってきたのか?

〈中3に避妊教育…適切? 都教委「性交渉助長恐れ」 識者「行動慎重になる」〉

 

 

 東京都足立区立中学校で行われた性教育が都議会で「不適切だ」と指摘されたことをめぐり、性教育の在り方が注目を集めている。学習指導要領を超えて避妊や人工妊娠中絶に言及した内容を問題視し「性交渉を助長する可能性がある」と、“行きすぎた性教育”を懸念する声が出る一方、識者らからは「正確な情報は行動を慎重にする」といった意見も。「学校で何をどこまで教えるべきか」をめぐって議論が噴出している。(高橋裕子

 「生徒や保護者の多様性に配慮し、現場は萎縮せず積極的に性教育を行ってほしい」「時代を先取りして教えるのがベストなのか」。授業の経緯が報告された4月26日の都教委定例会では、教育委員から賛否両方の意見が出た。この会合では、「今後、学習指導要領を超える内容を扱う場合には、保護者の了解を得た生徒を対象に個別やグループで指導を行う」とする方針が確認された。

 足立区教委によると、授業は3月、3年生の総合的な学習の時間に「自分の性行動を考える」と題して実施された。「高校生の性交は許されるか」などについて数人の生徒が意見を述べ、養護教諭らが避妊や人工妊娠中絶に関する正しい知識を説明。コンドームや緊急避妊薬などの特徴や使い方、入手方法を明記した資料も配布した。学校は事前に保護者会などで周知し、授業を保護者らに公開したが、否定的な意見はなかったとしている。

 この授業を問題視したのは都教委だった。生徒全員を対象とした授業で、小中高いずれの学習指導要領でも扱わないことになっている性交渉を取り上げ、本来高校で扱う避妊や人工妊娠中絶について具体的に説明したためだ。都教委は「性交をしてもよいかのような内容で、かえって助長する可能性がある」と指摘。保護者への説明も不十分だったとする見解も示した。

 授業は都議会文教委員会でも批判を受けた。「不適切ではないか」と質問した古賀俊昭都議(自民)は、学習指導要領を超えた内容を扱ったことのほか、「ほかの生徒や参観者の前で性に関する自分の意見を述べさせるのは、生徒の心の中に踏み込むことで配慮が足りない。また、生命の誕生につながる妊娠を性交のリスクのようにとらえてよいのか」と疑問視する。

 一方、学校で性教育の出張授業などを行うNPO法人ピルコンの染矢明日香理事長は、「『発達段階に応じた科学的な情報を伝えることが性行動を慎重化させる』という研究結果が、ユネスコの国際セクシュアリティ教育ガイダンスなどに示されている」と指摘する。

 同法人によると、同法人の授業を受けた後、生徒からは「多くの間違った知識が出回っているので冷静に読み取り、判断していくことが大切だと分かった」(中3男子)、「大切な話が聞けてよかった」(中3女子)-といった声が上がった。

 アンケートで「今後、妊娠を希望しないときは必ず避妊が実行できる」と答えた生徒は、授業前の44%から授業後には67%に増加したという。

 厚生労働省の調査では、平成13年ごろから人工妊娠中絶の実施率は全年代で低下傾向にあるが、28年度には15~19歳の女性1千人当たり5・0件の中絶が行われた。東京都の小池百合子知事は4月27日の定例会見で、今回の議論について「教委や学校現場がどこまで何を教えるか、しっかりと対応策を考えていただくきっかけでもあると思う」と述べた。(5/15(火) 7:55配信)

 

 分相応。というか、親が正面切って教えきれないものを、他人の学校・教師が教えるべきなのか。それとも逆に他人だからこそ教えるべきなのか。まあ、高校生には教えるようになったのだから(高校生の○経験率を見るに当たり、行政もほっておけなくなったからだが。)、中学校でも教えて駄目だとは思わないが。中学生といってもたくさんの「個性」があるから、一部は、うまく良い方に転がり、一部は「興味本位」で事をなし・・・。教えなければ、後者がなかったのか、どうか。そこが、現場を悩ませる。

 教えた男子中学生の一つ上の姉が、高校進学後、1ヶ月で妊娠が発覚。結局、女生徒は退学。相手は、中学の同級生。双方の両親を交えての話し合いの末、お互いに二度と関わらない。男子生徒は、養育費として毎月「1万円」払うことになったそう。女生徒は、赤ん坊は専業主婦の母親に預け、1日働きづくめで手取り8万円。食費など家に預けて、手元にほとんど残らず、赤ん坊の物はほとんど買えないという。それでも、錯覚でも、好きな相手と・・・かと祈るような気持ちで聞いてみたら、「別に」。

 その程度の「思い」「好奇心」を学校の「授業」で、変えられるのか。私は「否」である。この女生徒の親は、前述した「ストーカー事件」の親である。負の連鎖の原因は、親にあるのではないか?

おかあさん。

       「おかあさん」。

 長生きしてください。なかなか言えない本音です。自分の母孝行は、自分の親以上にあなた方を気にかけてくれる「嫁さん」と一緒になれたことでしょう。僕があなた方の誕生日や年齢を忘れても、彼女が覚えて、プレゼントを真剣に考え、時間を作ってれる。今年の彼女の「手作りパンケーキ」どうでしたか。子供の頃、自分の「やり場の内怒り」を貴方にあたってしまいましたね。自分のいまなお残る後悔です。でも、そんな自分に、「あなたは、やれば出来る」と最後まで心の中で信じて、応援してくれた母。今の自分は、そんな「心」に相応しい息子だろうか。50を超えても、たまに、貴方に愚痴を言いに帰る僕・・・。今こそ、貴方の存在が愛おしく、大切に感じていることはありません。ありがとう。少しずつ、恩を返していきたい。だから、長生きしてください。あなたの息子は、明日も、だから頑張ります。生きていきます。ありがとう。おかあさん。

あなたは「買いますか」?宝くじ。夢か効率か。割の合わないギャンブルか。

    お金持ちが「宝くじ」を絶対に買わない4つの理由

 

 

宝くじは他人にお金を貢ぐのと同じ?

私の周りにいる30代前半から40代半ばの高所得の知人は、宝くじをまったく買いません。興味もないですし、話題にのぼることもありません。宝くじ売り場の行列を見て「バカじゃん。ほかにやることねえの?」とまで言う人もいます。その理由を、彼らの言動を元に、私なりに推測してみました。

そもそも当選確率が低いからお金のムダ

ジャンボ宝くじの当選確率は1000万分の1。下記コラムでは興味深い比喩が紹介されていて、「東京ドームの収容人数を4万5000人だとすると、東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」とのこと。これは気が遠くなりますね。交通事故に遭う確率より低く、買ってもほとんどがムダになることがわかります。「そもそも買わないと当たらないだろう」とも言われますが、買っても当たらないとしたら、300円の商品をわざわざ3000円払って買うわけですから(ジャンボの場合)、ちょっと滑稽な行為とも言えそうです。

胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない

宝くじの配当率は47%と、他のギャンブルと比較すると、還元率が非常に低く、買った人はなかなか儲かりにくいシステムと言えます。これに比べたら、FXはテラ銭が1ドル(120円)あたり0.4銭ですから、同じくギャンブル性が高いと言われるFXのほうが、よほど健全です。使いみちはともかく、これほど買い手に不利な商品を買う合理的な理由がない、ということですね。では、そのテラ銭はどこに行くかというと、基本的には地方自治体が潤う構造になっています。

もちろん、地方自治体は地元のためにお金を使うため、社会貢献をしたいという人向けの寄附行為とも言えそうです。その他にも、特殊法人と言われる日本宝くじ協会自治総合センター、宝くじ事務協議会などにもお金が落ちますが、天下り法人の可能性もあります。だとすると、宝くじを買うことで、他人の給料や退職金のために貢いでいる、と言えなくもありません。

時間のムダ

時間を投下するとは、人生の一部をそこに投下する行為であり、ひとつの投資とも言えます。では、宝くじの発売をチェックする時間、買いにいく時間、並ぶ時間、ロトやナンバーズなどで数字を選ぶ時間を考えたとき、いったいどういう投資的意義があるでしょうか。

おそらく、富裕層(引退した悠々自適の富裕層ではなく、現役のアクティブ富裕層)は、自分ではコントロールできないものに時間を使うのがもったいない、と感じます。そんなことをする時間があれば、やればやっただけリターンが見込める、ビジネスのことを考えたほうがよいということでしょう。

自分の努力や才覚に依存しない夢を見る必要がない

宝くじを買う行為を指して「夢を買うものだから、ゲームみたいなもの。当選確率とかはどうでもいい」と言われることもあります。しかしこれは、そんなことでしか夢を見る方法がないという、典型的なお金を稼げない人の発想のような印象を受けます。夢とは本来、自らの努力と才覚で叶えるものであって、棚からぼた餅を待つという行為ではないはず。それは夢というより「夢想」や「妄想」の類いでしょう。

おそらく、「普段は満たされない自尊心」「やり場のない不満」「自分の力で切り開くという努力は面倒くさい」「儲かる方法を具体的に考えるのも面倒くさい」という潜在的な逃げと受け身の発想が、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、そんな夢を見たいという欲望を起こさせるのかもしれません。

仮にそうだとしたら、富裕層が宝くじに興味がないことが腑に落ちます。彼らは、自らの行動が未来を作ることを本能的に悟っているので、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」という発想である、と言うでしょう。

もちろん、誰が何を買おうとそれは本人の自由ですから、他人の買い物やお金の使い道に干渉するつもりは毛頭ありません。なので、本コラムは宝くじを買うことの是非を論じているわけではなく、「自分はいったい何を信念にしているかが、日々の消費行動に現れる」ひとつの例としての紹介ですので、悪しからず。

宝くじは他人にお金を貢ぐのと同じ?

私の周りにいる30代前半から40代半ばの高所得の知人は、宝くじをまったく買いません。興味もないですし、話題にのぼることもありません。宝くじ売り場の行列を見て「バカじゃん。ほかにやることねえの?」とまで言う人もいます。その理由を、彼らの言動を元に、私なりに推測してみました。

そもそも当選確率が低いからお金のムダ

ジャンボ宝くじの当選確率は1000万分の1。下記コラムでは興味深い比喩が紹介されていて、「東京ドームの収容人数を4万5000人だとすると、東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」とのこと。これは気が遠くなりますね。交通事故に遭う確率より低く、買ってもほとんどがムダになることがわかります。「そもそも買わないと当たらないだろう」とも言われますが、買っても当たらないとしたら、300円の商品をわざわざ3000円払って買うわけですから(ジャンボの場合)、ちょっと滑稽な行為とも言えそうです。

胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない

宝くじの配当率は47%と、他のギャンブルと比較すると、還元率が非常に低く、買った人はなかなか儲かりにくいシステムと言えます。これに比べたら、FXはテラ銭が1ドル(120円)あたり0.4銭ですから、同じくギャンブル性が高いと言われるFXのほうが、よほど健全です。使いみちはともかく、これほど買い手に不利な商品を買う合理的な理由がない、ということですね。では、そのテラ銭はどこに行くかというと、基本的には地方自治体が潤う構造になっています。

もちろん、地方自治体は地元のためにお金を使うため、社会貢献をしたいという人向けの寄附行為とも言えそうです。その他にも、特殊法人と言われる日本宝くじ協会自治総合センター、宝くじ事務協議会などにもお金が落ちますが、天下り法人の可能性もあります。だとすると、宝くじを買うことで、他人の給料や退職金のために貢いでいる、と言えなくもありません。

時間のムダ

時間を投下するとは、人生の一部をそこに投下する行為であり、ひとつの投資とも言えます。では、宝くじの発売をチェックする時間、買いにいく時間、並ぶ時間、ロトやナンバーズなどで数字を選ぶ時間を考えたとき、いったいどういう投資的意義があるでしょうか。

おそらく、、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ。「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ。自分ではコントロールできないものに時間を使うのがもったいない、」と感じます。そんなことをする時間があれば、やればやっただけリターンが見込める、ビジネスのことを考えたほうがよいということでしょう。

自分の努力や才覚に依存しない夢を見る必要がない

宝くじを買う行為を指して「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、だから、ゲームみたいなもの。当選確率とかはどうでもいい」と言われることもあります。しかしこれは、そんなことでしか夢を見る方法がないという、典型的なお金を稼げない人の発想のような印象を受けます。夢とは本来、自らの努力と才覚で叶えるものであって、棚からぼた餅を待つという行為ではないはず。それは夢というより「夢想」や「妄想」の類いでしょう。

おそらく、「普段は満たされない自尊心」「やり場のない不満」「自分の力で切り開くという努力は面倒くさい」「儲かる方法を具体的に考えるのも面倒くさい」という潜在的な逃げと受け身の発想が、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、そんな夢を見たいという欲望を起こさせるのかもしれません。

仮にそうだとしたら、富裕層が宝くじに興味がないことが腑に落ちます。彼らは、自らの行動が未来を作ることを本能的に悟っているので、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」という発想である、と言うでしょう。

もちろん、誰が何を買おうとそれは本人の自由ですから、他人の買い物やお金の使い道に干渉するつもりは毛頭ありません。なので、本コラムは宝くじを買うことの是非を論じているわけではなく、「自分はいったい何を信念にしているかが、日々の消費行動に現れる」ひとつの例としての紹介ですので、悪しからず。

(©株式会社オールアバウト)

 

 まあ、宝くじの確率の悪さは、昔から言われていた。ギャンブルの中での確率論。意外と、競馬→パチンコ→宝くじと言われてきた。東京ドーム約222個にひしめき合う人の中から1人が選ばれるのと同じ確率」と言われると「ほへ~」となるが。

 並ぶ時間?あまり並ばない所に行くし。、「楽して儲けたい」「一発逆転したい」、というより、「失敗」できないし。

 かくいう自分も、40代になるまで買わなかった。まわりが「夢を買う」と言いながら、「宝くじ」の話をしていても「ふ~ん」、てな感じだったが。もちろん「胴元が確実に儲かるシステムになっていて割にあわない」のは百も承知だった、自分が、「たま~に」買うようになったのは、まず、ロト6で同僚が夫婦併せて100万円当たって、仕事を休み海外旅行に行ったこと。旦那は、嫁さんと買い物で待ち合わせ。暇で人生初めてのパチンコ。やはりというか、なんとというか、ビギナーズラック。4円20連、10万円超の儲け。妻に話し、ふらでこれまた初めてのロト6。じいちゃんばあちゃんの誕生日含め、「適当」にやったら、なんと、前述の大当たり。「いいなあ~」。自分も、少しやってみた。全く当たらず。次の職場。つぶれそうな寿司屋の息子。最近、店を「建て直し」。大きく改築。それが「大当たり」で、うはうは状態。で、ある時、その息子に聞いてみた。・・・息子は臆面もなくばらした。「宝くじ1億円当たって、そのお金で・・・」。すぐ、その息子に忠言した。「そういう話は、周囲にしないほうがいいぞ。」と。それからである。まあ当たらないだろうが、買わなくては「1パーセント」も当たらない。夢すら見れない。まあ、、「お金持ちになる夢を見るヒマがあるなら、お金持ちになるための具体的な行動を起こせばいい。それは運を天に任せる宝くじなどではなく、仕事や起業や投資など、自らの知恵と努力と行動でつかみとることだ」と言われれば、そうなんだけど・・・となるが。多くの家庭人は、投資などで失敗は出来なのですよ、と。まあ、合理的ではないけれど。富裕層が宝くじに興味がないのは、まあ、それだけ「お金がありあまり」興味がないという、うらやましい状態なんだろう。まあ、宝くじ1億円が当たったら→貯金+妻と海外旅行。3億円なら、3000万円くらいで家を建て、1度きり妻ともう一度、新婚旅行で言ったイタリアへ。あとは、3000万くらいで家を建て、あとは貯金。もちろん、年齢が許せば、働く。まあ、生活できて、自分で自分をセーブ出来るなら・・・・働きたくないなあ、正直。だって、体力衰えても、人間関係で患い、疲れたくないもの。無理して働きたくはないなあ。

 多くの「サラリーマン」の人達は、宝くじを「買うのだろうか」「買わないのだろうか」。

104歳豪科学者、スイスの専用診療所で安楽死

         「これ以上生きたくない」!

 】「これ以上生きたくない」と主張していた104歳のオーストラリア最高齢の科学者が10日、スイス北部バーゼル郊外の安楽死用診療所で、致死量の鎮静麻酔薬の注射を受け、亡くなった。

 この科学者が会員となっていた豪安楽死推進団体「エグジット・インターナショナル」の医師がツイッターで明らかにした。

 安楽死したのは、豪西部パースのエディスコーワン大学名誉研究員の植物生態学者デビッド・グドール氏。重い病気はなかったが、ここ数年、視力低下など体の衰えが進んで「生活の質」(QOL)の低下を感じ、「生きたくない」「野外調査に出られない」と周囲に漏らしていた。

 オーストラリアでは現在、安楽死が認められていないため、安楽死を含む自殺ほう助が合法化されているスイスに今月初めに渡った。地元メディアによると、グドール氏の希望を受け、安楽死の処置中には「歓喜の歌」で知られるベートーベンの交響曲第9番の演奏を流し、曲が終わる頃に息を引き取ったという。死の直前には「やったことに決して満足はしていないが、最善を尽くした」との言葉をのこしたという。

2018年05月11日 13時19分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
 
 今まで、自ら死を選ぶ、つまり「自殺」はいけない、とブログ等で書いてきたし、心の変遷を経て、そう思うようになってきた。「命は自分の物であるが、自分だけの物ではない」という考えに至った。・・・が、果たして、そうか、と最近思う。
 末期癌。いろんな施術を経て、たくさんの管につながり、意思表示もできなくなり、そうなると、延命措置の拒否すら、この国では認められない。そして、莫大な医療費を延々支払うことになる。癌だけでなく、治癒が不可能な難病を抱え、必死に行き、行き着く果ては、同様のことに。そうなるまえに出来ることは、自ら死を選ぶことぐらいだが、病によっては、死ぬための体力・筋力も衰え、自ら決断すら出来なくなることもある。誰もが思う。長生きはしたいが、周囲に迷惑をかけたり、自分が自分でなくなるようなら、そんな「生」は嫌だ、と。その時が、苦しまず、自分が決断できるうちに、死ねたなら、と。それが、年を重ねた者の想いなのかもしれない。
 この国は、しかしながら、そんな「死に様」を許さない。だから、将来に、不安になり、そして、現実も、年金や生活保護等の社会保険は削られ、生きても地獄、死ぬ間際も地獄、の苦しみを考え、不安になるのである。
 この記事を見て思う。どうして「安楽死」をこの国は認めないのだろう。それは、果たして、誰のためなのだろう。今、不安で苦しんでいる人の事を本当に考えているのだろうか。今、不安でもなく、苦しくもない人が考えた法律が、果たして正しいのだろうか。自分の人生、いろんな決め方が許されてもいいのではないだろうか。