「いじめが自殺の主原因」広島・中3転落死で最終報告書

~何の権限もないなかで責任をとらされる無力感。時の流れるままにしかできない。

 広島市佐伯区の市立中学校で昨年7月、3年生の女子生徒が校舎から転落死した問題で、市教委が設置した第三者組織「市いじめ防止対策推進審議会」(会長=林孝・広島大大学院教授)は28日、最終報告書をまとめ、「いじめが自殺の主な原因と推認する」と結論付けた。報告書によると、小学校低学年から暴言や嫌がらせを受け始め、中学でエスカレート。3年時には「汚い物扱い」が常態化し、暴言をはじめ、小石を投げられたり傘でたたかれたりすることもあったという。クラス替えで仲の良い友人と離れたこともあり、「孤立感や自分に対する無価値感を強め、自殺に至った」とした。 さらに、中学校側が「いじめ」と認知できなかった点を問題視。問題行動を繰り返す他の生徒たちへの指導に意識が集中していたことなどを挙げ、「被害側の視点に立っておらず、早期に対処する姿勢に欠けていた」と批判した。

朝日新聞 東郷隆

 

 「いじめ」を見つけ、なくす為の、何の権限も権利もない。踏み込みすぎて調べれば、人権侵害と訴えられ、集団の規律を正し、そのために距離感を取り、集団が正常化すれば、「指導が厳しすぎる」と声を上げる保護者。そうして、集団は暴徒化する。その危険性を、今の若い教師・中間層の教師は肌で感じたり、見つめてこず、危機感はない。一端、事が起こり、「いじめは犯罪」という法律ができても、警察はじめ周囲の期間は「調査した」という実績づくりのみ行い、批判を恐れてそれ以上踏み込まない。lこれが昔からの慣習である。

 昨年度から今年度まで、2年続けて一人の生徒への「いじめ」らしき事案が続いた。「らしき」とうのは、外側から見ると、みな、いい子の集団で、幾人か「逸脱する生徒」はいるが、その子であるという確証もないまま、ただ「想像し」、「解決策」を数時間も考える徒労の時間が続いた。その間、毎日のように、その生徒の自宅や周辺の同学年の生徒宅へ送られる脅迫(体育祭楽しみだね・・・刺してやるよ。S○○の時の写真ばらまくよ。クソ婆もね~。せんこう何が出来る(笑))や誹謗中傷の手紙が永遠と続く。保護者会は、「何かしないんですか」「学年集会に何の意味が?」「犯人は分かったんですか?」などのつるし上げも、当然起こる。

 今年度、その中の保護者も巻きこんで「被害届」をだした。脅迫状などの指紋もとり、学校の中で(生徒の心情を鑑みるという警察の提案)、昨年からの、被害生徒と同じ部活動にいた生徒の事情聴取・指紋捺印までさせた。さすがに、指紋の件は、微細に渡り説明を「警察と調整」して行った。

 結果、たくさんの事件があるので、指紋照合はまだだいぶ先です、という電話のみ。他の情報は全く学校には知らされない。それから数ヶ月たち、保護者から、指紋の件はどうなりましたか?という半ば糾合の問い合わせも出てきた。その間、続く脅迫状・誹謗中傷・合成写真のラインなどによるバラマキが続いた。手紙は、学校と保護者が、一切受け取らないことを郵便局に表明。手元に届くことは無くなった。指紋の件は・・・結局、「捜査はこれ以上行わない」という一方的な連絡のみで終了。捜査は・・・パトカーでたまあに周囲を回って、それだけ。捜査は、皆無である。では、なんのために「指紋」を捺印させたのか。「事故があった時」の為の警察の責任逃れ、である。

 これらの中で、現場に何ができるのか。何もできないのである。踏み込みすぎていいことがない。疲れて、非難されて終わり。黙って、軽くつきあい、見ているだけ。当然、問題生徒もそれを見、学習する。緊張感を持つ必要もなく、ますます生徒が見えなくなる。問題行動を繰り返す他の生徒たちへの指導に意識が集中し、「いじめ」と認知できなかったのも、ある意味当然なのである。生徒が教師と利害関係を感じない、そんな中で、教師の指示は、ほぼ無意味になる、そんな時が生まれ得る。

 担任や学年だけを「訴えても」、無意味なのである。学校全体、いや警察も含めて責任を問わなければ。だからこそ、学校は、いじめ事案は保護者に警察に被害届を出させるべきであり、警察の、担当官の氏名も含め管理し、全体で「責任」をとらせる。それぐらいでなければ、荒れた学校の「立て直し」や深刻ないじめ問題の「解決」は、はっきり言って無理なのである。

 学校現場に漂う空気。それは、「担任するだけ損」。子供の集団原理を学ばない「教師」や何度も採用試験に受からない臨時採用の人(北海道では、3年以上不合格の人に特別枠で無試験で指導案だけ書かせ、採用にする制度が今年からがはじまり、不合格の人の50パーセントを合格にする暴挙を始めた)だけが担任を希望する現状である。

 また、保護者は、誰が不合格を続ける臨時採用の先生なのか、知ることができない。・・・子を持つ親として、とても怖い。そんな現実が、今、ある。

 

 

 

 

 

 

 

韓国レーダー照射問題。国交を断絶、韓国国内の日本企業の全面撤退!どちらが困るか?

~〈けんか〉は結局、どちらが屈服するか、距離を置くかしか解決の道はない。これからの「利」と存在していくための「理」

 

 韓国野党「正しい未来党」の河泰慶(ハ・テギョン)議員が、最近、韓日の間で論争となっている「日本海自衛隊哨戒機レーダー照準」に関連して「挑発したのは韓国ではなく日本」としながら「むしろ威嚇的な近接飛行をした日本が謝るべきだ」と明らかにした。河議員は27日、フェイスブックに「日本は連日、駆逐艦『広開土大王』が自衛隊海上哨戒機に攻撃型ビームレーダーを放射する挑発的行為をしたとして韓国の謝罪を要求している」としながら「いかなる電磁気)

 

 日韓の「いさかい」・「けんか」はとどまることを知らず、拡大していく模様だ。その姿は、まるで「けんか」。その原因は、3つ。韓国という国が貧乏な時(今現在もINF勧告の手前の状況だが)から、日本を異常にライバル視・敵視しながら国造りをしてきたという歴史・国性。その考え方の根っ子は、北朝鮮や中国と非常に近い。もう一つは、中国や北朝鮮、ひいてはそれ以外の周辺国から、さげすまれ・舐められているという、これまた歴史的事実。それを改善しようと、多額の金を国際機関や新興国へ「無償」で貸与したりしたいたが、効を成さず、返還されることなく、舌を出されている。

 その侮蔑意識を増長させているのが、領域を侵されても、何をされても、ただ「見守る」「抗議する」ことしかできない現状に、徹底的に「舐められている」こと。それが、根底にある。

 3つめは、それを肌で感じてきた現場の「自衛隊」の事実ねつ造が、国民の心の奥底に疑念として沈殿している、という事。それを払底したいがための、「強気」な行動。日本側は「火器管制レーダー」の照射を受けたことを裏付ける具体的なデータも示し、「非常に危険な行為だ」などと厳重に抗議したが、それ以上がしないのも、韓国は織り込み済みだろう。そして、認めない。

 データーは、当事者間ではなく、他国のマスメディアにも公開するべきだ。時間が経ち、そのデーターを無視し、自国の正当性をマスメディアに主張するだろうことも、歴史的事実なのだから。

 人間社会もそうだが、一度、舐められたら、その意識を払底するのは、非常に困難になる。「いじめ」の場合は、そこから脱出したり、その時のすべてを捨てる覚悟で、その当事者を「ぼこぼこ」にするぐらいでないと、その関係性は変えられない。

 対韓国は、国と国の約束も平気で破棄する暴挙もあった。その関係性を変えるのは、外交官の引き上げ、国交を断絶、韓国国内の日本企業の全面撤退!これぐらいの強い決意でないと、その関係性は変えられないだろう。一時的には、日本の経済にも影響を与えるだろう。が、中期的には、その経済規模・北朝鮮との関係の中で、困るのは韓国だろう。、「日韓通貨スワップ協定」ももちろん、拒否。未来志向は、韓国の出方次第でいいだろう。対北朝鮮でも、拉致問題への影響は多少あるだろうが、もともと韓国にはその解決の力も、気持ちもないのだから、長引く国交不和は、韓国という国の奥底にある政情不安に火をつけ、韓国が困惑・混乱するだろう。対して、アメリカは、多少、困惑し、国交正常化へ圧力をかけるだろうが、そのけんかは、日本は負けないだろう。アメリカの声をよそ目に、相手の困窮を目にしながら正常化の道を探ればいいだろう。

 日本にその覚悟があるか。韓国は、その時の影響を全く考えもしていない。だって「舐められているのだから」。

 

 

中1自殺、両親が市提訴=「いじめに措置講じず」―福島・須賀川

~片側からの事実は真実ならず。けれどもう片側からの事実を加えても「真実」ならず。

福島県須賀川市の中学1年の男子生徒=当時(13)=が2017年1月に自殺した問題で、生徒の両親が27日までに、市と教員2人に計約7600万円の損害賠償を求める訴訟を福島地裁郡山支部に起こした。提訴は10月12日付。 訴状で両親は、男子生徒の担任と所属していた部活動の顧問、学校を運営する市が、いじめに対して適切な措置を講じなかったと主張している。

 市教育委員会の第三者委員会は17年12月に発表した報告書で、男子生徒がクラスで受けた「菌」呼ばわりなどのいじめが自殺の大きな一因になったと認定した上で、「単なるからかいと事態を軽視する教職員が一定程度いた」と言及していた。

 須賀川市の橋本克也市長は「訴状の内容を十分に検討し、対応する」とコメントした。(時事通信社 13:08) 

 

 大切な子供に死なれた親のやるせなさ、怒りの「ぶつけ先」が学校・部活動顧問・担任に向くのは、理解できる。しかし、その陰にある「闇」までも見て、人は語ることが出来ず、もちろん記事に出来ない。それは、社会的タブーであるからだ。それが、事実だとしても。

 まず、いじめ、あるいは、心的負担に感じる程の継続的な圧力をからかいとしか見ない教員が「一定数」いる、というのは、どこの学校も同じだろう。学校は、特別な場所ではなく、社会の縮図なのだから。

 学校の問題として、生徒の命を預かる「担任」としての仕事が、まず「評価されない」役職であることが、意外と知られない。親対応、非行対応、警察沙汰対応・・・すべて「担任の仕事」なのだが、それ以外の副担と同じ給料であること。副担も一部の業務多忙な部署に比べれば、一時期の仕事の多忙さがあるだけで、多くは「骨休め」的な仕事も多い。でも給料は同じ。年々、経験もこの仕事の清濁も経験した、貴重なベテランが、50代で副担を希望する割合が多くなるのもこのためだ。そして、経験を積まない若手や何年も採用試験に受からない臨時採用の人を担任にする。最近は、理由無く、若い女教師を担任に据える管理職もいて、現場は不協和音が静かに浸透する。臨時採用の教師は、それを公表すると親からの避難中傷があるため、その人が転勤・離職するとき初めて「任期終了のため」という言い方で、形だけ伝えるのみだ。そういう意味で、今後は、学校・学年・学級の治安維持に、再び困難な場面が増えてくる事も予想される。

 学校だけではない。社会全体で「責任を誰かになすりつけ正当化」する風潮が、この「いじめ問題」をも不透明なものにしている。

 たとえば、介護問題。人手不足・外国人参加問題で注目を浴びているが、そもそも、家庭で「介護」出来なくなり、「お金を払って」、代わりを「お願い」している制度だ。「お金を払って」いるから、という理由で、「些細な部分」にも注文をつけ、「やってあたりまえ」「プロなんだから」という言葉で、「自分が出来ないでお願いしている事実」を覆い隠す。出来ない事を責める。目を背ける。それが、介護施設の「虐待」「人手不足」の原因の一つである事は、自明の事実だろうに。「感謝」の気持ちがない所に、その闇の原因・制度の限界があるのだろう。

 学校も同じ。勤務時間を超えて、放課後学習を毎日することを公然と要求したり(自分でもっと子供に関わる、教育に関心を傾ける等放棄して)、いじめが横行しているときは、担任の力量を責め、「だめなものはだめ」と指導すると、高圧的すぎる、子供が萎縮していると非難する。(自分の子供目線で考えるだけでなく、至極正しそうに言葉にする)。結局、教師は、考えるのをやめてしまう。面倒くさくなるから。結果、学級・学年は荒れる。結局、他人事。そこに闇の原因はある。自分の子供が同様の事件に巻きこまれるまでは、自分がしてこなかったことの結果を誰かに転嫁しているほうが「楽しい」という気分。

 子育ての問題。すぐ「死にたがる」子供は、その家庭に根深い問題があるが多い。夫婦仲、経済等。そして、その事実に、目を背け、対決を避け、逃げ続けた結果、耐え、逃げ、次の道を模索することなく死を選ぼうとしているかもしれないことに、不感症になっていることも多い。

 「死んだ犬に石持て投げるな」は、美徳である。が、美徳は、いつも人を救うとは限らない。時には、その災いを周囲に広げることさえある。その根本の原因は、「責任の他人への転嫁」「責任のなすりつけ」「開き直り」という、人間の業にあるような気がする。特に、最近の社会の様相を見るにつけ聞くにつれ、そう感じる。

 学校にしても、介護施設にしても、いざ事件が起きれば謝るしか手だてがない。だから、「正義の代理人」風のマスコミは、責めやすい。そして、その闇を見つめられない。・・・学校のいじめ問題は永遠に解決できない、深遠な闇に包まれているような気がする今日この頃である。

 

日産「ゴーン追放クーデター」に見る日産の未来と正義という偽善。

~悲しいかな。ゴーン追放クーデター後の日産の未来!

 まさかの、そしてドラマ「ハゲタカ」もびっくりの「ゴーン追放」クーデター。

 これは、誰が見ても「クーデター」である。そして、この「クーデター」を成し遂げた西川廣人社長兼CEOサイドに高揚感がうかがえないこと、ゴーン体制の「不満」をあげつらうだけで、自分たちの思い描く「未来」を示しえない結果に、「西川廣人社長兼CEO日産」の未来も見えたような気もする。事実、西川廣人社長兼CEOの思惑とは裏腹に東京地検特捜部は日産経営陣の背任も視野に「聴取」を続けているという話もある。

 1999年経営破たん寸前だった日産はひどかった。自分もずつと日産車を乗り続けていたが、新車は、普通に乗って6年で錆が末期状態になる。(街で見かけるブルーバードはみな同じ様)、中古車は5~6万キロのテラノが、車のおなかに給油が漏れ続け、タプタプ、少しでも衝撃があれば爆発・・・なんていわれ、挙句に、トヨタに乗り換えることを決意しつつ、日産の付き合いのある会社に、エルグランドの交渉も、社交辞令で話し合い、・・・その夜(トヨタエスティマにしたのだが)、営業から電話で、270万でもいいので・・・というお願いがあったほど。そんな状態だったのだ。

 人生の行動の結果には、すべて光と影がある。日産のカルロス・ゴーンがメディアに「カリスマ経営者」と持ち上げられた理由は、言うまでもなく“コストカッター”。要するにクビ切りだ。ゴーン容疑者は日産の社長だった2009年2月から、国内工場などで働く約8000人に上る非正規労働者の大量のクビ切り策を強行。多くの人が生活の基盤を失ったが、同時に、彼の行動力なしでは、200パーセント、日本から「日産」という会社はなくなっていた。当時を生きた自分は、そう思う。倒産すれば、生活の基盤も何もありはしない。多くは派遣社員がその対象になったが、その社員たちは、世の移り変わりに、危機感を持ち、学生時代や社会人時代を過ごしたか?言いたいのは、ゴーンだけが悪いのか、ということだ。

 まあ、外部の人間が富を得て、自分たちには・・・となると「妬み」「ひがみ」は世の常。そこに「手を打たなかった」所に、ゴーンの油断があったかもしれない。ただ、今回の「事件」も、日本の「文化」的に、報酬はあまり多く見せないほうがいいと「日産」経営陣がアドバイスしていた、という話もある。つまり、だまされたのかもしれない。ただ、倒産しそうな時には、百頭下げて「来ていただいて」、利益が出るようになると、足で砂をかけるように「もらいすぎだ」、と謀略をはかる。それが、なんともやりきれない。「感謝は口だけ」「のど元過ぎれば熱さ忘れる」のような「今の日本」を見るようで、落ち着かない。社内の不満は、ゴーン氏ら一部の外国人が高給を取り、会社の金で贅沢三昧なのに、現場への投資は怠っていることへの反発もわからなくはないが。

 ただ歴史上、クーデターは明るい未来を作ってこなかった。壊すのは簡単。だが、その先の「設計図」を誰も描けなかったからだ。西川廣人社長兼CEOサイドに、未来への

「設計図」や「設計図作製への情熱」があるとは感じられなかった。

 ゴーンなきあとの日産は、残念ながら明るいものではないような気がする。 

中高年の47%が「会社の飲み会」が嫌い。嘘をついて断ることも。

~飲み会に行かなくなった理由。それは・・・。

 飲み会は好きか嫌いか?」と尋ねたところ、中高年世代の47%が「嫌い」「どちらかというと嫌い」と、否定的な態度を見せているのだ。一方、若手世代に同じ質問を投げたところ、飲み会否定派は35%にとどまった。しかも飲み会を断る際には、いい年こいた中高年でさえ64%が嘘をついて参加を断っているのだ。

                    (2018年11月9日 8時54分日刊SPA!

 

 最近は、とんと飲み会に参加していない。理由すら言わない。この「記事」は、そういう中高年が増えているという。さもありなん。なぜなら、時代・耐久観・見返り・充実度、いろんな物が変わってきている。教育現場は、それがマイナスに触れつつあるが。

 若い頃は、なぜあんなに飲み会に参加していたのか。不条理な職場や上下関係、嫌な同僚・上司のいる首席へ。楽しかったか、そうでなかったか、と聞かれれば、そうでない事・心理の方が多かっただろう。金もない。それなのになぜ?

 まずは仕事を覚え、独り立ちしなければならない、という切迫感。困難な場面に出会ったとき、助けに堪えてくれる目上の先輩や上司への顔つなぎ、人間関係作りの必要性。それが、なににも増して必要だった。「酔った振りして」、仕事の進め方のコツや困難な場面に出くわしている事を、「少し」相談したり、そんな必要性があった。年を重ねる度に、そんな場面は軽減し、また、年齢相応に、自分で選択・解決出来なければ、ある意味、「恥ずかしい」年齢になることも、その必要性が薄れていく、それも要因としてあろう。飲み会=人間関係作り・拡散、という意味合いもあったが、最近は、家に帰れば、仕事の残り、食事、読書、ネットで時間は終わる。意図して人と関わらず、必要な知識を補える。飲み会に出る意味がなくなった。

 また、先輩に教えを請うという時代でなくなった。自分が若い頃は、理不尽な先輩でも、そこに一定の敬意を持ち、話を聞いたり、行動を観察し、自分の引き出しに貯めていった。そこには、やはり大きな緊張感も生まれ、それが「仲間」観を作り出していたように思う。今は、良くも悪くも「平等」なのである。そこに、「ごちそうしてでも」という心は生まれない。勝手に動き、さもそれが「当然」のように振る舞い、問題を起こしたら、「知らん顔」。そんな若者の為に、何かを作る、「心の耐性」が減っているのであろうか。

 お金の問題である。そういう平等性のもと、飲み会は若手主体のものとなる。別にそれでいいのだ。ただ、そこに安くないお金を積み立て出席するのは「馬鹿らしい」のである。なので、どうしても飲みに行きたい、心のリフレッシュをしなければ、という時には、行きつけの店を探しておいて、一人で飲むのである。その方が、お金の使いがちを認めるのである。

 基本、一人で「責任を取れる」自信をつけた中高年は、無理して若手と飲もうと思わないのだ。相手が「欲しない」中、「育てよう」と頑張る意味がない。

「飲み会に誘う側である、上司や先輩側の努力がまず必要ですね。普段の力関係を考えずに、酒席だからと上司が友達感覚で話そうとしても、コミュニケーションに齟齬が生じるケースはよくあります。アドバイスのつもりで話したのに、若い世代にとっては、自慢話や説教に聞こえてしまう。飲み会で腹を割った話をしたいのであれば、上の立場の人は、上から目線にならないように注意して、お得意様を接待するくらいの気持ちで接するといいでしょう」と記事の筆者は言うが、そこまで迎合してまで、飲み会に参加する意味は、管理職にでもならないかぎり生まれない。

 中高年が飲み会に参加しなくなった理由。それは、「個性・平等・人権」など声高に叫ばれ、年長者を敬う空気が薄くなっていく昨今、まあ、必須の現象ではあるのではないか。・・・飲み会のお金の積み立てすら、最近は拒否する中高年が多くなっていると聞くが、まあ、意味ないからね。積み立てたお金は、丼勘定で出席しなくても、もろもろ引かれ返金されないし、なら、間違って行かなければならない時だけ支払う方がいいし。・・・会社も終身雇用制がなくなり、仲間である意識より、時間内だけの社員という時代だし、生き方・その価値観の変化も要因としてあるのだろう。

 「良い仲間関係は良い仕事をする。=仲間関係が良くないと良い仕事ができない」。こんな(仕事をしない・出来ない人達の)妄想が、妄想として分かってくる年齢層が中高年でもある。「良い仕事を成し遂げる→達成感→仲間関係が良くなる」ことに、中高年層が気づき始める年齢であるのも、飲み会を中高年層が求めなくなった背景にありそうではある。たかだか「飲み会」の事。どうでもいいことではある。

 

高1男子が自殺…父親「担任教諭から罵声」

~そんなことで死ななければならないのか?結果に対する原因は?

 

宮城県工業高校1年の男子生徒(15)が8月、仙台市内の自宅で自殺していたことが31日、わかった。男子生徒の父親(44)が同日、記者会見して明らかにした。父親ら遺族は「担任教諭の過度な指導があった」などとして、原因を調査する第三者委員会の設置を求める要望書を県と県教育委員会に提出した。 父親によると、生徒は担任の男性教諭から罵声を浴びせられたほか、提出したリポートのやり直しをさせられたり、部活動を禁止されたりして精神的に追い詰められたとしている。生徒は「先生が自分にだけ強く当たっている気がする」と話していたという。

 生徒は夏休み最終日の8月21日、自分の部屋で自殺しているのを母親が発見した。遺書はなかった。(読売新聞 / 2018年10月31日 19時4分)

 

 生徒を死なせたことは、関わった教師、学校が全面的に悪い。学校は、すべての生徒に「安全」を保証する事が、第一義的な「責務」だからだ。しかし、「悪い」ことと「責任」が100パーセントある、のとは違うのでは、とも思う。

 

1、担任の男性教諭から罵声を浴びせられた。

 罵声=激怒、である。一他人の一教師が、(たかだか子供の)生徒に、感情を露わに、その後に起きるであろう様々な「面倒くさい」事象を、考えられなかったわけでは無いと思う。それでもなお「罵声」を、衆人の面前で「見せて」しまうほどの、「原因」があったのではないか。それは、その「場」にいた者しか知らない。他の人は、所詮「想像」しかできない。

2、提出したリポートのやり直しをさせられた。

 これが、死を選ぶ原因としてあげられる意味がわからない。「やり直し」を求めるには、当該生徒やその集団に、完成のための「条件」が提示され、それに見合わない、(つまり、説明を聞いていない、条件を無視している)為であるはずで、主観も含め、その価値観に会わなければやり直しであり、それが、学校という「場」である。

(まあ、それすら面倒な場合は、「不可」のサインを記して返すだろう。この場合、それをしない所に、この教師の、ある意味「真摯」ささえ、うかがえるかもしれない)

3、部活動を禁止された。

 学校の部活動は、クラブチームではない。対価ももらわず、いわばボランティアの場である。もとより、学校という場の約束事が守れてこそ、活動が保証されるのである。それが出来ていない、と認められる場合、「部活動停止」は、その顧問の判断に委ねられるし、それが納得出来ない場合、部活動を辞め、クラブチームなどの社会体育に、その活動を、対価を払って委ねるべきであるのは、明白だと思う。

4、生徒は「先生が自分にだけ強く当たっている気がする」と話していたという。

 子供が言う、文句の方程式である。それだけ、その子が「目立つ」という事実がある。叱られるには、原因がある。仮に他の生徒が違う場面で同様の事を起こして、叱られない(教師が見えない、あるいはその場で叱る事を意図的に避ける)ことがあったとしても、その場で、怒られる生徒が、怒られる原因を「見せていた」のは事実だろう。

 子供が、自ら命を絶つ、これほど痛ましいことはない。が、親の立場で言えば、そんな事は、これからいくつもやってくる。理解できない人との出会い。理解してくれない人との出会い。理不尽な出来事の数々。生きていけば、多分、出会うだろう、誰しも。そこで、くじけない心を育てたいし、この父親も育てたかったのだろう。苦しいとき、その一端でも「自分にこぼしてくれれば」、そんな思いが、今回の訴えの背景にあるのかもしれない。・・・・合掌。それしか、ない。

 

 

松山千春「写真」を通勤前に聞きながら。「昭和の天才」の声に、あのときの想いを重ねて。

~人は、結局、自分の青春時代の曲に「癒し」を求めるのか。

 色々な歌手・曲に出会いながら、年を重ね、結局、自分の青春時代の曲に、自然と回帰するものなのか、と最近実感する。この頃は、松山千春玉置浩二を、短いスパンで交互に聞きながら、職場に向かう。その中の1曲。松山千春「写真」。

 

 アルバムの片すみに 見つけた写真一枚

 楽しそうに肩を組み 笑顔浮かべた二人

 

 年を重ね見えてくる、その「時」。それが、笑顔であるか、悲しさであるか、意外とそれらは同じ「種類」のものかもしれない。

 

 ただ燃え上がる 愛を 身体で受けとめて
 今 この時が すべてと信じてた

 

 若いとき、そして、側にある「愛」らしきもの。それはかげがえのないもので、なにものにも代え難い「何か」に見えてくる。それが、「錯覚」だとしても、そこに「すべて」を見る。それが、一人ではなく、二人なら。


 眠れずに おたがいの 夢を語り疲れて
 明けきらぬ 街の中 腕を組んで歩いた

 

 若い頃の「夢」。それは、いくら語り合っても尽きる事はなく、時間だけが過ぎていく、そんな事の繰り返し。気がつけば同じ事を言い合い、理由無く涙流れ、そのそのままに、酒を煽る。それが、一途だと思っていた。

 ただ愛だけじゃ なんにもできないことくらい
 そう 気づいてた 子供じゃないからね

 

 でも、それだけでは生きていけない。何かを捨てて、「強くならなければ」、壊れてしまう、そう感じていた、20代。もう「子供じゃない」。

 さよならが 言えないと 電話かけてきたとき
 わかってた 何もかも あとはことばにならず
 ただ泣きじゃくる おまえが なおさらいとしくて

 

 「さよなら」が言えないのは、「おまえ」じゃなく「俺」なんだ。そんな弱い自分に

大切な何かを捨てて、見ないふりをしていた。それを、人は「青春」と呼ぶ。なら、自分にも「青春」はあった。確かに、あった。

 

 でも 悲しいのは おまえひとりじゃない
 ねぇ わからない 何が二人をひきさいた

 

 そう、「悲しい」のは、いつも、どんな時も「一人じゃない」。みんな、それを簡単に見せないだけ。でも・・・あの時、「同じ気持ち」でいたのに、悲しいのは、一人じゃなかったのに、言えなかった。それは、運命だった。「運命」。それは、何。あの人は、今、幸せだろうか。

 ただ あの頃に 二度とはもどれない

 そうして、人は年を重ね、自分を年を重ねた。あの頃に戻れないことは重々分かっていて、戻ろうとも思わない。けれど、そこに、自分を見てくれた人が、確かにいて、自分も、同じように見ていた人がいた。それが、自分を支える。

 ・・・そんな事を、ふと思わせてくれる、松山千春「写真」。自分の中の名曲。こんな曲を書き、歌える、この人は、間違いなく昭和の「面影」。そして「天才」。いつまでも紡いで欲しい。昭和の「心」を。

 こっそり心で歌いながら、つぶやきながら生きていきたい。「あのとき、ありがとう。」と。