平井堅「歌以外はコンプレックス」。

~生きると言うこと、それは、自分の柄や器の小ささ・弱さとの戦い

 

 

 操上さんに言われてあらためて、自分の中の“欲”と向き合ってみると、欲しいものは才能とか称賛、あとはときめきとか感動とか、目に見えないものばかりだった(苦笑)。人前に出る仕事なので、今まで割と称賛されたことはあったと思うけど、もっと欲しいということは、それじゃ足りないんでしょうね。~中略~20代の頃なんかは、アーティストとして振る舞おうと、肩肘張っていたときもあったけど、やればやるほど自分の凡庸さに気づいてしまって……(苦笑)。自分の柄や器の小ささを知ることに一抹の哀しみを覚えつつ、「その事実を受け入れた上で、迷いや弱さと闘っていくことが人生なのかもしれない」と平井さん。(週刊朝日 2017年7月7日号)

 

 平井堅が81歳になる写真の大家にアルバムジャケットの撮影を頼んだ時の一コマである。音楽業界という一見華やかな世界に身を置き、成功も収めている人が、81歳の人に撮影を頼む事も、当たり前のようで、実は当たり前ではないのかも知れない。その深奥が上記の懊悩にあった。

 一芸能人のインタビューだが、50歳を迎えて日々、)。自分の柄や器の小ささを知る事が増え、その事実を受け入れることの難しさと、迷いや弱さと闘っていくことが人生だ、という、その言葉に、無意識に共鳴、いや縋る、そんな気分があることに気づいたのだ。人生は戦いなのだ、というあるドラマの言葉を座右の銘にしてきたが、その本質は、こういう事にあったのだ、と今更ながら思う。みんな、戦っているのだ。そう言う意味では、生きていれば皆、同士。そんな事も思う。腹の立つことも、上手くいかないことも多い日々だが、それをも受け入れて、戦っていくことに意味があると信じて、明日も頑張ろう。

過保護は「時代」か。親と子の距離感の「気持ち悪さ」。

 先日の参観日のあとの「茶話会」と称する学級行事である。教師の立場的には「茶話会」だろうが「保護者との飲み会」だろうが「仕事」である。仕事だから、楽しい雰囲気作りに苦労する。(献血での事故を美人看護婦との絡みで笑い話にするとか)

 そんななか、空気の読まない保護者がいるわけである。もともと、昨年の懇談会での子供の心配事を伝えた腹いせか、まず、役員OKと出しながら、感謝の電話が遅いという理由で、他学年の役員へ。「申し訳ありませんが、他の人を探してくださいね」ときた。他になり手もいなかったせいもあるが、別にPTA役員決めは本務ではないので、「なり手がいないこと、報告します」と答えておいた。明るい声で。

 だって困らないんだもん。別に。さて、その茶話会で彼女が出したいちゃもん。「・・・の時、息子、服装間違えて、戻ってきて、先生はいいと言った言うけれど、

納得いかないので説明してください。」(本校は、体育の時、家庭科・美術の時は内容次第でジャージ登校なのだ。)

 「3年生ですので、昨年も申し上げましたが、時間割の確認は係・生徒が運営しています。教科の内容もメモさせています。たまたま・制服・ジャージの部分が間違えて貼ったみたいですけど、他の33名は、、その日は体育もなく5教科でしたので、全員、内容から「制服登校」と考えて、制服で登校しています。」

 「息子が何も考えていなかったという事ですね」「そうなりますね。」「わかりました。ラインに入っていないのは息子ともう一人だけだから。」。(ラインのせいか?もう一人はきちんと「制服」で登校したし。貴方の横の母親が、そのもう一人なのですよ。)時間は17:00である。(3時から開始したので、いやはや2時間経過である。)その後、解散、さあ、仕事と思ったら、その彼女、「先生、進路の相談があるのですけど」。(相談があるのなら、それなりの「雰囲気」を作るが「大人」なのでは?)全然、いいのだけど、なんなんじゃそれ?自分の要望だけ伝え、何も考えていない、それは「あんただろ」、と思ったのだ。

 入学当初から、息子べったりで有名な彼女。息子はそのせいか寡黙で、人と目を見て話せない。それでいて、サッカー部で、声も出さないで指摘されると、文句はかっこいい。・・・お母さん、あなたの距離感、どうなんだろう?家の中では、どうでもいいけど、外に出さない方がいいんいじゃない?なんて思ったり。

 過保護は、あるいは、溺愛は、果たして息子は喜ぶのか。仕事だから「笑顔」で「真剣」に対応したけれど、さ。よくある話っていえば、そうなんだけれど。

 他人の話だから、どうでもいいんだけれど。息子さん、苦労しなければいいけれど、と思う茶話会・茶話会後でした。

 

北海道安平町深夜震度5弱の地震。聞こえない、使えない「防災無線」。

 

~「・・・・さい」「落ち着いて・・・」

          「お父さん、避難してくださいだって」?

 昨日、7月1日(土)。もう日付が変わろうとする23:45分頃。「ご・ご・ご」という音が鳴る。2~3日前にも、同様な音がなり家が少し揺れた?ため息子が「お父さん、地震あったよ」、と教えていたが、多分、あれはトラックだったろう。

 今回も、のんびり構えていたら、横の妻が「あれ?」。その声で眠気眼をこすり、半起き状態に。すると、ずんずん、とか言う感じの突き上げがあり、「おお?」、そのあと激しい揺れが3~4秒。家がみしみしと軋んだ。幸い地震はすぐ収まった。

 そのすぐあとに「お父さん、外で非難してくださいって流しているよ。」「?、これだけの地震で?」。外に出て、見ると、確かに「防災無線」が起動している。もともと、以前勤めた村のように、家屋の中にスピーカーがあるわけではないので、家の中にいたら聞こえないし、風が吹いても聞こえづらい、と不評の「防災無線」。外に出てみたら、「・・・・さい」「落ち着いて・・・さい」としか聞こえない。落ち着いて、何をするんだ?やはり避難か。津波の訳もないし、「火山?」。しばらくたたずんでいたら、「・・・TV、ラジオで確認を。」。そうか、慌てず、TV、ラジオをつけろ、といことか。それで一件落着。

 それにしても、なんとかならんのか、防災無線。その役割を全く果たせず、何とかの長物。まあね、平時にあまり大きなボリュームでも迷惑だろうし、深夜、役場の人は、周辺に住んでいないだろうし、いても、まさか仕事場に来て、防災車で放送して歩かないだろうし。本当の大きな災害がこんな夜中に起きたら、終わりだなあ、津波なら、逃げ遅れだなあ、などと思い、娘をあやし、就寝。息子は勉強に戻る。

 翌朝、新聞を見て感心。安平町の職員が役場に集結、情報収集にあたっている写真が掲載。大変なことだ。本当にご苦労様。短い時間で、いろいろ考えた夜だった。

 

「落とすなら落としてみろ」 二階氏、マスコミ批判

~いいなあ、そんな事言えて。

   そんな強気な事、今、「政治家」しか言えないし。

 

  自民党二階俊博幹事長は30日、東京都国分寺市で行った東京都議選の応援演説で、自らの差別的な発言が報じられたことなどを念頭に「言葉一つ間違えたら、すぐ話になる。私らを落とすなら落としてみろ。マスコミの人だけが選挙を左右するなんて思ったら大間違い」と述べた。さらに「我々はお金払って(新聞を)買ってんだよ。買ってもらっていることを忘れちゃだめじゃないか」と語った。(朝日新聞2017年6月30日18時31)

 

 いいなあ。この期に及んで、そんな強気発言が出来るなんて。今、一番身分が保障されている職業が政治家・大臣だからなあ。「おめえらに力があるなら見せてみろ」だもんな。確かに、政治の提灯持ちにならざるえない「ジャーナリスト(死語)」に、そんな力はないだろう。あると見せかけ、諦めている。それが、今のマスコミ。安住地点からの「揚げ足取り」しか技がない。そう思われている。

   それにしても「安部政権」の強気は、たいしたもんだ。それが本心でも強がりでも。普通、そんな言葉をだそうもんなら、大概「退場」。まあ、でも、「我々はお金払って(新聞を)買ってんだよ。買ってもらっていることを忘れちゃだめじゃないか」という部分は、その通りかもしれない。マスコミの本分は、誰彼と無く攻撃することではないのだから。

   でも・・・「できるのならやってみろ!」と一度くらい言えたら、気持ちいいだろうなあ。

 

 

学校現場から体罰をなくすには?・・・「諦めること」。

 

~学校から体罰をなくすには、「諦めること」

 学校現場から「体罰」がなくならない。それはなぜか。体罰がある意味ランナーズハイのような常習性・習慣性があるのは間違いない。だから、上意下達式の「部活動」で、それは起こりやすい。それ以外では、「子供の悪意」が「大人としてのプライド」に穴を空ける時だ。昔のように地域も家庭も保護者もそして子供すら、一部の地域・生徒(子供)除き、敬意を持っていない。そして、「悪意」に打ち勝つ「手だて(武器)」を持たない今、その「悪意」に打ち勝つのは、「鈍感さ」と「諦め」を知る事である。諦め・・・それは、教師ごとくが、何年も家庭で育まれた文化(子供)を変えることなどできないのだ、という諦めである。そこを真っ直ぐ突き進み、「救える」「変えられる」と錯覚した時、突然、表れる「子供の裏切り」に耐えられなくなる。そこに体罰が生まれる。だから、学校から体罰はなくならないのである。

 諦め・・・言葉で言うが易しだが、実際はなかなか難しいのである。何しろ、この職業、多くの不条理の中、「子供のため」という「情熱?」に支えられる部分が非常に多い職業だから。同業者が自分の子供には「勧めたくない」職業NO1なのも頷けなくもない。では、心のバランスを崩さず、しかも、情熱を持ち、生徒前に立つには何が必要なのか。次回は、ある一時期を振り返って、その問いに答えてみたい。

バニラエアが車椅子の客を這いずりあがらせた?本当に「バニラエア」が悪いのか。ルールとは?

 

車いす客にタラップはい上がらせる バニラ・エアが謝罪

 鹿児島県奄美市奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。

 男性は大阪府豊中市バリアフリー研究所代表、木島英登(ひでとう)さん(44)。高校時代にラグビーの練習中に脊椎(せきつい)を損傷し、車いすで生活している。木島さんは6月3日に知人5人との旅行のため、車いす関空に向かった。木島さんとバニラ・エアによると、搭乗便はジェット機で、関空には搭乗ブリッジがあるが、奄美空港では降機がタラップになるとして、木島さんは関空の搭乗カウンターでタラップの写真を見せられ、「歩けない人は乗れない」と言われた。木島さんは「同行者の手助けで上り下りする」と伝え、奄美では同行者が車いすの木島さんを担いで、タラップを下りた。

 同5日、今度は関空行きの便に搭乗する際、バニラ・エアから業務委託されている空港職員に「往路で車いすを担いで(タラップを)下りたのは(同社の規則)違反だった」と言われた。その後、「同行者の手伝いのもと、自力で階段昇降をできるなら搭乗できる」と説明された。

 同行者が往路と同様に車いすごと担ごうとしたが、空港職員が制止。木島さんは車いすを降り、階段を背にして17段のタラップの一番下の段に座り、腕の力を使って一段ずつずり上がった。空港職員が「それもだめです」と言ったが、3~4分かけて上り切ったという。

 木島さんは旅行好きで158カ国を訪れ、多くの空港を利用してきたが、連絡なく車いすで行ったり、施設の整っていない空港だったりしても「歩けないことを理由に搭乗を拒否されることはなかった」と話す。

 バニラ・エアはANAホールディングスの傘下で、国内線と国際線各7路線で運航する。奄美空港だけ車いすを持ち上げる施設や階段昇降機がなく、車いすを担いだり、おんぶしたりして上り下りするのは危険なので同社の規則で認めていなかったという。バニラ・エア奄美空港でアシストストレッチャー(座った状態で運ぶ担架)を14日から使用、階段昇降機も29日から導入する。

 同社の松原玲人(あきひと)人事・総務部長は「やり取りする中でお客様が自力で上ることになり、職員は見守るしかなかった。こんな形での搭乗はやるべきでなく、本意ではなかった」とし、同社は木島さんに謝罪。木島さんは「車いすでも心配なく利用できるようにしてほしい」と話している。(朝日新聞

 

 この記事を目にした一瞬、障害のある人を「さらし者」にさせて、どういう神経をしているのか?と思ったものだ。けれど後日、同じ事件のニュースを見ると、格安航空のため、身障者対応の施設も不備で、人員に制限もあるのか「車椅子の方は5営業日までに連絡を」とHPにあったそうだ。だが、このバリアフリー研究所代表、木島英登(ひでとう)さん(44)は、その連絡もせず、この騒動になったとのことだ。

 相当数の旅行を重ねている人なので、格安航空の利点・難点も理解して上で、旅行の予約をしていると考えるのが妥当だろう。では、なぜ、このような騒動になったのか。

 障害を持ち、バリアフリー研究所代表という肩書きを持つ「強み」が、謙虚さを見失わせたのだろうか。「騒動」で「固い岩盤」を砕こうと「企画」したのか。

 ルールとは、(法律を含め)何のためにあるのだろう。ふと思いつくのは、個人の幸せのためというより、絶対多数の平均的幸せのためであろうか。そして、ルールを運用するのは、個人である。個人が、自分のいいように運用しようとすれば、どうとでもなるものでもある。大手の企業は、その規模が大きければ大きいほど、個人の攻撃に過敏になる。それが事実を、見えづらくする、そんな面もなかったか。「自己中の問題児がモンスタクレーマーと化し、マスコミ(大人・親)を利用して大騒ぎする。」そんな、教育現場と同じ匂いも感じないでもない。その背景をしっかり知らなければならない、そんな世の中なのだ。

 

子育て時期に、思い出す「あの人」。元気かなあ。

子育て中を思い出し、忘れられぬ人。

 

 何の拍子か。子供が「生意気な屁理屈」を言うから思い出した。柿崎さん。元気かなあ。結婚して、数年して子供が生まれ、新居として選んだ「コーポ花○」。自分たちはその2階に住んだ。初めての子供で分からないことだらけで。さぞ、夜泣きや何やらでうるさかっただろう。自分は、その階下の「おばさん」と何故だかうまがあった。何度か、外で会い「申し訳ない」的な事を話したら、「子育て中は、そんなもの。何かあったら気兼ねなく言いなさいね」と言ってくれたおばさん。その頃で60歳くらいだろうか。子供が目を離した隙にいなくなり慌てる中、子供の手を引いて連れて来てくれた。

 村勤めで、たまに取り立て海産物を持って挨拶に行くと、破顔して喜んでくれたり。

職場の都合で転勤になり挨拶に行くと、「あと10年はここにいるから」「また戻ってきてね」と言ってくれた人。元気でいるかなあ。出会いに恵まれた子育て時期。いろいろ難しい話も聞くと、本当に恵まれていたなあ、と思うこの頃。子供はすくすく順調に育っているかどうか、怪しく思うこの頃だけれど。一人暮らしだった柿崎さん。元気でいてくれたら。そんな事を思う今日。少し飲み過ぎたかも知れないなあ。