やっと行けた「幸福駅」。貼り絵にしてまで行きたかった駅。はじめての「道東道」。幸福になりたい?

~トンネルに次ぐトンネル。それでも便利になった帯広行き。幸福駅にかけた願い。

 

 いつのころだったろう?誰にもらったかも覚えていない、不思議な駅名の切符。その名は「幸福駅」。20年大切に持っていたのは、生きるのが苦しかった若かりし頃うゆえか。なぜなくしたのだろう。それとも、捨てたのか。様々な思いを胸に積もらせ、仕事で、意地を見せようとりかかった「貼り絵」指導のテーマに、無意識に選んだのが、「幸福駅」。その時代、おかげで「幸せ」を感じられた数少ない瞬間。

 今日、2018年4月28日(土)、やっと行けた、その駅に。前の夜、仕事がらみで妻にあたってしまった。素知らぬふりで2人で出かけた。最近完成した道東道を使った旅である。まず、トンネル、トンネル、またトンネル。片道2時間半(昔は帯広行き4時間強)の中で10個ぐらいのトンネル。途中、鹿注意、キツネ注意、はたまた「霧注意」など不思議な看板を通り、帯広着である。

 まず最初に向かったのは、「愛国駅」(現在は廃駅で記念館に。)である。

 

 愛されつつ滅びていく、まさに今の北海道。まさにこの「地域」のために尽力した「石川晋」という教育者も、退職と同時に東京へ移転。北海道の縮図のよう。なんて、少し感傷的にこの地に立つ。

 愛されつつ滅びていく、まさに今の北海道。まさにこの「地域」のために尽力した「石川晋」という教育者も、退職と同時に東京へ移転。北海道の縮図のよう。なんて、少し感傷的にこの地に立つ。

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最近、疲れて怒りっぽくなり危険信号満タンな自分。じっくりこの記念碑を見る。若かりし頃の自分を思い起こして。近くの土産やに寄り、今はなくした幸福行の切符、今度はプラスチックのカバー入りを買う。そして、掲示用の?大きな切符に、息子への思いをのせ、別に娘と息子への記念として買う。 

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そうこうこうしているうち、11:00くらいになり、帯広駅周辺のスイーツ店へ。なにしろ、帯広市は、スイーツ含めフードバレーを目標としてる市である。行かぬ手はない。 時間もあまりないので、2店を選ぶ。まずは柳月トスカチーナへ。ここから20分少々である。有名店であるので、客も次から次。昼食はあきらめるも、おいしそうな限定品を土産に。外観もおしゃれでなるほど、である。昼食をあきらめ、というよりたくさんの試食に満足し、目的の2店目の「クランベール」というお店に。ここも次から次へと客が・・・。でも、驚きはそこではなく、ケーキセットが450円。コーヒーも一から作り、選ぶケーキも陳列棚(商品棚)から好きなものを選べるという親切さ。1個、なんと190円。札幌価格のショートケーキ400円超になじんでいる(あきらめている)自分は目がぱちくり。そこでケーキセットをいただく。

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最後の目的地、ばんえい(帯広)競馬場。

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帯広競馬場は一時の苦境を乗り越え、「とかちむら」というフードパークを隣接し、北海道名産ともいうべき存在として生まれ変わった。・・・一度は行ってみたいと思ってた。いくつかお土産と馬のぬいぐるみ(親子馬はかさばるからだめ、と妻に猛反対されあきらめる)を買い、競馬場へ。ばんえい競馬は、普通の競馬と違い、後ろに重りと人間をしたがえ、坂道や砂道を走る(引っ張る)のである。馬券の買い方もままならぬ夫婦は、中の従業員に聞き聞き、馬新聞を見ながら買ったものの、それは夜のレースだった。新聞はレース順になっていると思ったが、始まると・・・なまえがちがう。そして、2レース目。3-7.がちがちの本名。レースも順当。だが・・・ゴール手前で7番が泣きそうな顔で「休んで」ハーハ。おいおい。頑張れ。思わず声が・・・。その最後尾から猛烈な気負いで8番が・・・。まさか。そのまさかであった。妻と大笑い。

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こうして、帯広行きの旅が終わった。すこしだけ、不条理に悩まされていた心も軽くなった気がする。楽しい旅だった。

戸塚ヨットスクール校長「体罰は有効」「甘やかすのが女の本性」発言に批判相次ぐ

~あんな言い方しかできなかった事に「挫折した」人間の叫びを見た。

 坂上は、自身の教育論が絶対的かのような態度の戸塚氏に「あなたの善悪が全てじゃない」と言い放つも、戸塚氏は「いや、すべて」と即答し、坂上が「じゃあ、なんでここに来たんだよ!」と言い放つ姿に、どんびき。だって、番組に読んだのは、あんたがたマスコミだろ、と。戸塚校長が伏してお願いして出演したわけでもあるまい。・・・最近疲れて、いらいらしているせいか、逆に坂上の正義然とした言い方が鼻についたものだ。

 女優・本仮屋ユイカが「許すこと、認めること、受け入れること、わかり合おうとする努力」と持論を述べるのも、正直、ばっかじゃないの、と思った。あなた何様?と。

 1クラス40人の個性、1学年計200人の生徒を、ある一定程度同じ目標・価値観・善悪感の中生活させるのが、学校。「許すこと、認めること、受け入れること、わかり合おうとする努力」のお題目が、現実の学校、10代の子供全員、問題のある子供の課題の処方箋となるか?それがテーマの番組ではないのか?貴方は、今まですべて「許すこと、認めること、受け入れること、わかり合おうとする努力」で解決・幸せに出来たのか?自分が出来ない物を、公共の電波の上で、偉そうに言っていいのか?と不快になった。

 戸塚校長が語った「この日の」教育論が正しいとは思わない。が、人が人を教育するという事を純粋に考えれば考えるほど、それは、「我慢させ」、「理不尽」をある程度受け入れさせる事でしかなしえない部分も、あるのだ。教育とは、人生をある意味教えるのだ。人生は多くが「理不尽」なのだから。

 間違ってはならないのは、戸塚校長の理念の善し悪しと、体罰の是非とは全く違ったテーマで、いわゆる「マスゴミ」が、上手に誘導し、それに乗らされた感もある。

 親が育てることを「放棄」した子供である。その子供にどれほどのキャパがあるか。教育とは、そんな状況をさえ「受け入れ」なければならない、そこに、闇が生まれる。

 彼は、訓練生の死亡について、「責任はある」「方法が間違っていた」という。教育は、いつでも、その「方法」を試行錯誤しながら探求し、その解は、明日には、また変わっていく。責任の重さに対し、多くの「大人」の不条理も蔓延し、意欲ある兵隊は、疲弊し、魅力のない職場に成り下がる。それでも、そこに「夢」を追った戸塚校長の「挑戦」への気持ちはくまなければならない。「現場」にすべての責任をなすりつけても、本当の「闇」は見えない。

ハリルホジッチ 解任の陰に「やりたがり西野」「危機感本田」か。

~哀れ、ハリルホジッチ。「卑怯」がまかり通った事件に、白けた。

 もしかしたら、と予想していたが、まさか、こんなことが。そんな日本人も少なくなかっただろう。ハリルホジッチ解任。会見で、誇りもプライドも「ゴミ箱」に捨てられたようだ、という言葉に、老将の「悲痛な」叫びが聞こえて、苦しくなった。「スター選手・すぽんさーありき」の今の日本サッカー界の現状も垣間見えて、・・・まあ、今に分かったことじゃないが。マスコミがスターに仕立て上げた「本田」が、その座を初めて降ろされる「恐怖」の前に行ったのが「田嶋会長」への直訴であり、スポンサーへの直訴。そこに、彼の言う「W杯で勝つために」という志は霧散していたのだろう。気持ちは、わからないでもないが。そして、やりたくてやりたくて監督を、でも、声はかからない。実績も残したのに。そういう西野技術委員長が次期監督に。そう言う人が、ハリルのサポートを真剣にするわけがない。だから、白ける。年齢的に代表監督はもうないだろうハリル。思うだけ言うが言い。日本サッカー会への思いを。

 最近、理不尽の中の、自身の判断の過ちに疲れてただけに、「理不尽」の渦に飲み込まれたハリルホジッチ前監督の姿に、自分の気持ちを記しておきたくなった。少なくとも、今までのように純粋に「西野JAPAN」を応援する気が起きない。一部スター選手を全部外すくらいの「意外性」があれば、「将来への夢」も持てて、応援しようかなあと思うのだけれど。「一部の選手の直訴」が「監督」を上回る。それは、一部不良の親や生徒が、自分の行為を棚に上げて、担任を変えろと叫び、運動し、見事、それが適ったら、「おれのほうが、あの担任より力ある」「おれが担任を変えてやったんだ」のような、少し前の、いや、今もあるか。小学校で。そんな「大人版」を見せられたようで、気分が悪くなった。もう、0-10、3連敗。大恥を世界にさらす、それぐらいでいいのかもしれない。それぐらいの実力なのだ。日本サッカー会の立ち位置は。その事実を見据えられない事が、難しい現実を生む。組織は、必ず腐る、か。

 

 

平成の大横綱貴乃花親方相撲協会追放か。相撲協会のやくざの論理に孤高の相撲人生敗北か!

 

純粋な相撲好きが徒に。組織の論理に、なぜ庶民まで加担するのか? 

 横綱日馬富士の暴行=処分と引き替えに貴乃花親方も理事剥奪=相撲界追放へという雲行きに、釈然としない気持ちになる

 横綱日馬富士の暴行は、ビール瓶であれ一升瓶で荒れ、貴の岩の怪我が、裂傷であれ骨折であれ、被害届が出た時点で、傷害罪で処分が当たり前。被害者側が処分されるのはどういうことだろう。理事としての責任、という事だが、会社が不正を行い、あるいは怪我人を出し、それを表沙汰にしないために、いち早く報告をしない事をもって処罰とは・・・まあ、世の中そういう事はままあるが。貴乃花も相撲界を出る覚悟ぐらいしているはずだ。

 親分が黒を白と言ったら白といえ。それが相撲協会論理だが、それはまるでやくざの論理。

社会で生きていく上で、そうしなかれば生きて行かれない事もままあるが、第三者として見ている時ぐらい、そこを否として戦う人間を応援したい、とも思う。

 平成の大横綱貴乃花は、純なまま相撲を取りきり、相撲に人生を捧げた希な力士だ。世もその時は「八百長」が横行し、週刊誌でも実名が何度もでていたほど。今の八角理事長初め現在の役員はほとんどその時一度は名前が出ているはずだ。

 貴乃花は兄の若乃花との兄弟優勝決定戦で、泣きそうな顔で土俵に上がり、そして、土俵を降りていった姿が印象的だ。どうにもならない「現実」に、唇を噛みしめているような。

 そんな相撲を本気で愛している「横綱」が、現体制を信じられないのもわかるし、それ以外にも「うやむやに」してきた事実もあるのだろう。理事長にだとか、派閥争いとか、そんな外側の論理だけでここまでならないだろう。「道理を通せば角が立つ」。目をそらせば、「生きる術が無くなる」。

 池妨某。この人が、「相撲だけ」に一途に人生をかけてきた「真っ直ぐな」男の気持ちの、どれだけをわかって物を言っているのだろう。この人をこそ、引きずり降ろしたい、そう思う。

 組織に、「自分の存在する意味」をかけて一人で戦っている「孤独な」男を、上から目線で「斜に構え」、冷笑する姿に腹が立つ。・・・こんな事を書いても、なんの足しにもならないのはわかるのだが。

 多くの「一般人」は、その矛盾にさらされながら、こらえて生きている。生きなければならない。だからこそ、そんな経験もないだろう「池妨某」の、貴乃花追放への動きに熱くなる。自分たちも、マスコミに踊らされず、孤高に戦う男を、ほんの少しだけでも応援してあげたくはないか。組織に逆らわずおれない事情を抱えた男を。

 ふざけるな、池妨某。日馬富士よ。こんな騒ぎになり、「現役でいたい」なんて虫が良すぎる。おまえもふざけるな、だ。相撲協会よ。「横綱が宝だ」とかなんとか言っているが、平成の不出世の横綱をないがしろにし、追放しようという輩たちがいう「宝の横綱」は、八百長OKのモンゴル人のことか。だいたい、現役時代たいそうな成績も出せず、「政治」だけがうまい人達が、貴乃花が煙たいのは、わかる。器が小さいのだから。

 相撲協会の法人は即刻取り上げるべきだ。好きにやりたいのだから、守る必要はない。税金を払わせるべきだ。

 貴乃花親方に。けれど、ドンキホーテは、負けてしまうのだ。負け方を考えているんだろうか。弟子たちの「夢」は、あなた自身なのかもしれないのだ。負けたあと、「夢」はどこにいくのだろう。少しだけ、引くのも、生きていく故の便法。・・・頑張れ、貴乃花

<政府>公務員定年65歳に延長 段階的に 来秋にも法案

~「死ぬまで働け」法案。食べて行かれないのだからしかたないけど。

政府は、国家公務員と地方公務員の定年を現行の60歳から段階的に65歳まで引き上げる検討に入った。少子高齢化で生産年齢人口の減少が見込まれる中、労働力確保を図る。早ければ来年秋の臨時国会に関連法案を提出する方針だ。

 政府は6月、内閣人事局や総務、財務両省などの局長級による関係省庁連絡会議を設置し、定年の引き上げ幅などを議論している。菅義偉官房長官は1日の記者会見で「労働人口を確保しつつ、社会全体の活力を維持するために幅広い検討を進める」と述べた。

 最終的に65歳までの定年延長を視野に入れるのは、公務員の年金受給開始が2025年度までに65歳に引き上げられるためだ。定年と受給開始年齢を合わせることで、収入の「空白期間」が生じるのを防ぐ。

 ただ、定年延長は総人件費の拡大につながる可能性がある。政府は60歳以降に役職定年制を導入するなど、給与水準を抑制する方策をあわせて探る。

 一方、政府は民間企業の定年延長を支援するため、20年度までを「集中取り組み期間」に設定し、助成措置を強化する計画だ。公務員の定年延長検討には、民間の対応を促す狙いもある。(毎日新聞 9/1(金) 21:00配信)

 

「超高齢社会」「超少子化」に何ら真剣に手を打てないまま来てしまったつけだろうけど、要は「人手が足りない」し「年金システムも崩壊」するから、死ぬまで働けということか。まあ、年金もらえず、給料もらえずは、=死ね、ということだから、それよりはいいか。でもね。35超えて体力気力もがたんを落ち始め、50超えて、いろんな矛盾と不条理と体力の減退とで、「あと10年」と思ってたら、「あと15年」。苦しいなあ。まあ、子育てにお金もかかるから、頑張るしかないか。でも、それまで健康でいられるかなあ。年金もらう前に死んでしまうかもしれないし。じゃあ、年金準備金を国民から摂取するのをやめたらどうなのだろう。自分で積み立て、自分で使う。今でも払った額の5割くらいしか戻らないといわれるのに、これでは、1割も戻らない人もいるだろうし。男性なら平均寿命まであとわずかだし、支給年齢まで。

 定年延長が若手の就労機会を奪うのでは、という論点もあるが、10年後くらいには、就業人口の急激な減少により、企業が立ちゆかなくなるとも言う。政府は、小手先の策ではなく、根本的な施策を、お金をかけてでも研究すべきだ。軍備を増やして、国がないと言うことにならないためにも。・・・それを考える頭がないか、それとも、もうすでに手の打ちようもないぐらい、実は深刻化しているのか。 

 

使い捨ての医療機器、洗って再使用 兵庫医大病院

~病院を標榜する資格がない。永久に業務停止だ!何が大学病院だ!

兵庫医科大学病院(兵庫県西宮市武庫川町)は29日、厚生労働省の通知で手術後に廃棄するよう定められている医療機器を、洗浄して患者130人に再使用していたと発表した。同病院によると、感染症など患者の健康被害は確認されていないが、手術後1年間は経過観察を行うという。

 この機器は、骨に穴を空けるドリルの先端に取り付ける金属製器具4種類。昨年12月から今年7月末にかけ、医療機器の洗浄を担当する複数の看護師が事前協議をせずに、手術で1度使った器具を洗浄、滅菌し、整形外科と脳神経外科で135回の手術に再使用していた。

 7月中旬に厚労省から西宮市保健所に情報提供があり、8月1日、同保健所と近畿厚生局が立ち入り検査。その後、同病院を文書で是正指導した。

 病院によると、看護師らは「厚労省の通知は知っていたが、滅菌して安全性が担保されていれば再使用しても問題ないと思っていた」と説明。同病院は看護師らの処分を検討する。(神戸新聞 8/29(火) 18:43配信)

 

 言語道断としか言いようがない。「厚労省の通知は知っていたが、滅菌して安全性が担保されていれば再使用しても問題ないと思っていた」。何という言いぐさ。医療村の頂点にある大学病院の資格が、もはやないのではないか。医療行為を止めて、研究にいそしめばいい、思う存分、願い通りに。

 昔、胃カメラの洗浄ミスでピロリ菌に感染した疑いが強い、と他の病院で言われ(あまり言いたくはないが、との事だったが)、状況と日にちなどを鑑みた結果だった。激烈な激痛・嘔吐(と言っても何も出ないくらいはき続けたが)で救急車で運ばれた夜の翌日の事だ。退院前日、その病院長に「どうする?」旨言われ、多分、認めないよね、とも言われたが、退院後、その検査センターに電話し、説明するも、当然、けんもほろろ。証拠を出せ、とか、なんとかばかり。証拠なんて出せるわけがない。ただ、同様に「検査センター」ではなく、専門も病院の専門医が、「胃カメラの洗浄不足で感染が多発して、その症例に類似している」というだけなのだ。ただ、他に思い当たるフシもなく・・・。

 医療は、その手技、知識、危険へのアンテナ、すべてに置いて「信頼」が前提となるのではないか。それを軽視するこの「大学病院」は、すでに、その資格がない。業務停止を含め、厳しい措置が当然だろう。

 

90歳女性首切られ死亡 同居の孫を逮捕。34歳孫殺人容疑で逮捕!悲痛な叫び。

~「頑張って介護してきたのに。何でそんな目で見るんだ!」

 28日午前9時半前、横浜市南区大岡のマンションの一室で、この部屋に住む90歳の女性が首から血を流して倒れているのを家を訪れた娘が見つけて通報しました。女性は意識不明で病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。捜査関係者によりますと、女性の首には切られたような傷があり、近くには刃物が落ちていました。警察は、連絡が取れなくなっている親族の男性が事情を知っているとみて捜査しています。(テレ朝ニュース)

 

 同容疑者は午前10時半頃、自ら山手署に出頭してきたという。調べに対し、「祖母が何度も同じ事を繰り返し聞いてきて、にらみつけてきた。頑張って介護してきて、何でそんな目で見るんだ、と思って・・・」と容疑を認めているそうだ。

 男は女性の次女の息子で、4,5年前から2人で暮らしていたという。

 何とも痛ましい。それしか言葉がない。介護の末の絶望。寛大な量刑を望む。90歳の女性は、もう「何もわからなかった」のだろう。それがわかっていても、なお、その気持ちは、側にいた者でなければわからないものに違いない。だからこその「寛大な処置」だ。社会が救ってあげられない、政治が、見捨てようとしている事象だからこそ。

 次女の息子。つまり孫だ。どこまで「密な」じじばば関係を築いていたかはわからないが、この男の母親はどうしたのだろう?だぶん介護に嫌気がさし、自分の「親」である母親を置いて、あまつさえ自分の子供も捨てて逃げたに違いない。その「穴」を、ある意味、血の繋がらない「孫」がしていたわけだ。孫も女性も、もう「わけがわからなくなる」状態。

 超高齢化社会。親は子の負担にならないよう、惚けないよう、そればかり心配して生きる。その時、現実的に、子供にもゆとりはない事が多い。長生きは「罪」か。今、そんな悲痛な声が木霊する。みんないつかは年を取るのに。