給食中倒れ生徒死亡、元校長ら書類送検 業過致死の疑い?

~「教師」はどこまで「万能」を求められるのか?

 大分県別府市の県立南石垣支援学校で2016年9月、高等部の女子生徒(当時17)が給食中に倒れ、その後死亡した事故で、県警別府署は7日、当時の校長(56)ら4人を業務上過失致死の疑いで書類送検し、発表した。容疑を認めているという。

 ほかに送検されたのはいずれも当時の担任教諭(43)、養護教諭(49)、同(55)。同署によると、4人は16年9月15日、当時高等部生活教養科3年の林郁香(ふみか)さんが給食をのどにつまらせた際、見守りなどの義務を怠り、的確な応急措置をしなかった疑いがある。両親が17年1月に同署に告訴していた。

朝日新聞 2018年5月7日13時16分)

 教師はどこまで「万能」を求められるのか。最近、つくづくそう思う。自分の子供に「やめておけ」と言いたくなる職業NO1である。給料に対して(年々減っていく)求められる責任が拡大の一方なのだから。

 誤解のないよう書いておくが、自分の愛娘を亡くした悲痛、どこかに責任を求めたい気持ちは重々わかるのである。が、しかし、なのだ。「高等部生活教養科3年の林郁香(ふみか)さんが給食をのどにつまらせた際、見守りなどの義務を怠り、的確な応急措置をしなかった疑いがある。」というが、17歳、高校3年生である。その食事を「見守らなければならない」状態なのである。いくら講演・講義をうけていても、所詮、「教える」職業の人である。まして、給食は、その「教える人」にしても、「栄誉補給」の時間なのである。間違いなく。「見守り」が必要な、その生徒だけではあるまい、この支援学級は。そして、「見守る」人は、年々減らされていく。看護師も当然いるわけではなく、親すら、「お願い」して(それを、当然の権利として行使しているのだろうが。)、その場にいない。「責任を持てません」という言葉すら、許されない「現場」に、何ができるのだろう?東北の被災地で、避難計画通りに避難させ、結果、訴えられる、そんな訴訟が継続中である。言ってしまえば、、「見る暇もない」のだ、一般の職場では。計画は、校長が作り、教育委員会が認めるのだ。一教師個人ではない。この事件でも、何とかしようと、教師が仮に指を突っ込み、喉に穴があいて死んでも、やはり業務上過失致死なのだ。どうすれというのだろう。失敗が許されない判断。それは、一学校、一教師には、荷が重すぎないか。ある意味、もっと身近な人の責任を他人に背負わせてはいないのか。誤解を招くかも知れないが、あえて、思うのである。責任はいずこに?である。

桜散る。今年も見納め。そして考える。「幸せのリレー」の行き着く果ての年金問題。「はてな」

 どうして人は桜を愛でるのか。古今東西日本人は桜を愛し、桜になにかしら思う。なぜだろう?とふと考えてみた。単純な理由であることに気がついた。まず、自分が年を

重ね、「散る」までの年限を意識し出したこと。もう一つは、木というものは、意外に花をつけない。ましてピンクなんて。そして、その美しさもわずか1週間ほどしかもたない。その「はかなさ」に、自分の人生の「色」を比べるのか、と。さて、わが町の桜並木もどうやら見納めのよう。昨日までは、満開で、桜の「満開」が「散る間近」であるというので、そうなのかなあ、とやや名残惜しく、早めに帰宅、桜並木に見学に行った。

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 昨日まで、まさに「満開」の桜たちが、苦しそうに、必死に花を支えているようである。美しいというより、苦しそうという言葉が適当か。

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 それでも、近くで見ると、なかなか可憐で、そう思う自分が「年取ったなあ」と感慨深い。この気持ちが、桜を愛でる日本人気持ちなのか。そんな桜も、降ってわいたわけではない。今から7年も8年も、いやいやもっと前に、ここに植樹した人がいて、それを、大切に育てた人がいて、今、ここにある。当たり前のことだが、そんな当たり前の事があって、植樹し、育て、守ってくれた人がいて、もしかしたら、その人は、もうこの世にいない人かも知れなくて、その人やその瞬間のおかげで、愛でたり、考えたり、嘆賞したりできるのだ。いわば、「幸せのリレー」。その「バトン」は、きちんとつながっているのだろうか。自分もつなげているのだろうか。

 さて、ここで、やや固い話題に。年をとる。=退職=年金。なんて考える事もある。その年金、毎月相当なけなしのお給料から、何十年もとられ、しかし、受け取る段になると、その額は年々減らされ、気がつくと、50パーセントそこそこ?しまいには、もらえる(返してもらえる)年齢が、年々伸ばされ、おいおい、その年まで生きている?みたいな。でも、日本人は、なぜか「文句一つ言わない」。まさしく「はてな?」。

 50パーセント切るんだぜ。70歳とか75歳に返してもらうんだぜ。ええ~てな感じ。だったら、最初から国に預けず、天引きでも何でも、そうそう「郵便局」にでも預けておいた方が、お得だったのでは?「みんなで支え合う」というお題目で、とられる人は相当とられるが、感謝もされず(当然か)、半分しか返却されない。だったら、それぞれ自分で将来にそなえて、「貯蓄」して、それを、きっちり「返してもらう」、そういう方式の方が、すっきりこないか。なんて・・・・真剣に考えてしまう。

 ちなみに、マスコミがよく使う「国の借金」1000兆円。日本の国民総資産は8420兆円ある。余裕がありありなのだ。まあ、外国に貸したお金は、ほぼ戻らないだろうが。年金資金も、巨大にある。だからこそ、杜撰な処理や官僚による無駄遣いができるのである。では、なぜ、受取額が減らされるのか。大きな「はてな」なのである。

 桜のように美しく、桜のように可憐で、桜のように潔く、散りたい、そんな年齢に一歩一歩近づいている。今年も、見納めである。

  

 

 

 

 

 

 

30代警部補を指名手配=強盗事件関与疑い―群馬県警

~世も不思議。なぜ?人生棒に振るほど金欠だったのか? 

群馬県嬬恋村で2日に発生した強盗事件に関与した疑いがあるとして、県警が所属する30代の警部補の男の逮捕状を取ったことが5日、県警への取材で分かった。現場近くで盗まれた車で逃走している可能性もあるとみて、指名手配して行方を追っている。 長野原署などによると、警部補は2日午前2時25分ごろ、同村大笹の酒店に侵入。現金約1万円やビール券約30枚を盗んだところを巡回中の警察官に発見され、この警察官に体当たりして押し倒し、逃げた疑いが持たれている。

 警部補は身長175センチくらいで、黒いニット帽をかぶり、上下とも黒っぽい服装をしていたという。警察官は、店内に不審な人影があるのに気付いて周囲を警戒していた。(時事通信社 2018年5月5日 10時52分(2018年5月5日 17時21分 更新)

 

 いやはや、摩訶不思議。先日は、先輩の指導(いじめ?)に我慢できず、ピストルで先輩を殺害、という事件があったばかり。今度は、コンビニや酒店での窃盗、逃走。

 それほど金に困っていたのか?高卒なら、10年はもう勤めているだろう。現金約1万円やビール券約30枚ぽっちのために、「人生を棒に振る」決断をしなければならなかったほど、この警察官を追いつめていたのはなんなのだろう?

 にしても、人の心の中は、神様しかわからないとはいえ、拳銃・拳闘等身につけている「警察官」の犯罪は、市民の恐怖を倍加させる。

 暗闇で赤色灯やライトもつけず、みみっちく「交通違反切符」をきるため、隠れている方法を伝授するより、人としての生き方や遵法意識、退職後の人生モデルなど、教えることは色々あるだろう。遵法意識が低くなり劣化しているのは、実は、警察そのものなのでは、と思ってしまう。さて、この警察官は捕まるか。それとも、お約束の結末として、自分で始末をつけるのか(つけさせるのか)。結末がいかに。

 でも、本当に、どうしてしまったのだろう? 

 

 

温泉・回転寿司、明日は日ハム

今週のお題ゴールデンウィーク2018」

 今年のゴールデンウイーク。長男は浪人中、娘は部活の合宿やら練習試合やら。ということで、別々に連れて行くことに。

 息子は浪人中のため、あまりだらだら出来ず、近くの「いこいの湯」という小さな施設へ連れて行くことに。小さな施設だが、源泉かけ流しで、お湯は最高で、自分は何度か疲れたときに行っている。札幌は渋滞しそうだし、苫小牧方面ならということで妻と3人で行くことに。妻は、買い物(見て楽しむ)でおつきあい。こどもの日なので、奮発して、その横にある回転寿司に。昼前なのでかろうじてカウンターがあった。息子は早速「300円」の寿司を手に取る。思わず「考えて食えよ」といらぬ言葉を。子供の日で、少し奮発するつもりだったのに。慌てて、「まあ、好きに食え」。二人で5000円少々。若さは、恐ろしや?あれ、俺も同じくらい食ったか。そのあと温泉に2時間ほど。その後、帰宅の途中、車中で「コンサドーレ」を見る。深井のシュートで先制。まさか、また勝つのか?たまらず、妻と運転手交代。息子とサッカー談義をしながらゲームを楽しむ。息子に今年は春が来てくれるよう、たくさんの桜並木にお願い・・・は忘れた。明日は娘の子供の日。日本ハム観戦。ユニフォーム付きチケットを奮発して準備万端。・・・ただ今まで勝ちゲームに当たらない。さて、今度は。最低でも投手戦はTVでいいので、打ち合いを願う。お父さんもエネルギー充填して、7日から頑張れるよう、明日はビールをたくさん飲もう。・・・いやいや応援頑張ろう!

 

身近な日常の中に潜む「はてな?」。ローソンで3日以上お風呂に入らない手で「手渡し」?

~少し考えてみた。それ「本当?」。もしかしたら?

    ゴールデンウィークの3連休。浪人中の息子、部活の合宿で不在の娘を置いて、夫婦で妻の実家にお泊まりに。行く先々で、綺麗な桜並木や山桜、はては、ヒグマ撃退ようの「目が光り首が動く」スーパーモンスターウルフとやらを見て、久々に大笑いして、最近の心の澱の少し落とし、考えてみた。

 

1、最近、インフルエンザの流行が終わらない。なぜ?

 〈県立病院でインフル13人感染、女性患者が死亡〉

新潟県立津川病院(阿賀町津川)は3日、入院患者9人と看護師4人の計13人がインフルエンザに集団感染し、このうち90歳代の女性患者が死亡したと発表した。

 同病院によると、4月26日~5月1日に、50~100歳代の入院患者9人と20~30歳代の看護師4人がインフルエンザA型に感染した。90歳代女性は5月1日に発症し、3日午前に死亡した。同病院は「死亡とインフルエンザとの因果関係は調査中」としている。同病院では4月27日に発症者を隔離し、29日から入院患者との面会の一部を制限している。

 同病院は「普段から感染対策を行っていたが、こういう事態が起き、心苦しい。地域住民におわび申し上げるとともに、再発防止に努めたい」としている。

(2018年05月04日 14時35分 読売オンライン) 

 この記事に限らず、最近はインフルエンザが1年中発症する。つい最近も、自分の会社で「インフルエンザ」に罹患し、欠勤する職員が2人でた。昔は、冬を我慢したら次冬まで安心だったが・・・。最近は、1年中、安心できない(笑)。年寄りには、わらいどころではない。ある意味死活問題だ。なぜこんな風になったのか。

 タミフルとかリレンザとか何とかという新薬など、たくさんでているのに。結局原因はそこにあるのではないか。町医者は(こんな言葉は、もう死語か)、とにかく、インフルエンザみたいな症状がでたら、その「特効薬」をばんばんだし、耐性を作るのに協力してしまったのではないか。抗生物質の「耐性菌」のように。自分の近所の医者は、せきの風邪でいくと、ためらわず「抗生物質」をだす。細菌性の風邪がはやぅていると言って。最初は簡単な検査をして、炎症反応が出ているといい処方し、2回目からは咳がひどくなると「検査もせずに」処方する。そんな、「無作法」な態度が、インフルエンザの流行を長引かせてるのではないか。・・・そんな「無作法」が、新型インフルエンザを生まなければいいが。

2、本当に手渡しがいいのだろうか。見えない所は真っ黒け!

〈ローソンのコーヒーは、なぜ「手渡し」なのか〉

ローソンのカフェブランド「MACHIcafe(マチカフェ)」。2017年は約4億杯を販売し、「ブレンドコーヒー」(Sサイズ100円、税込み以下同)や「アイスカフェラテ」(150円)はローソンのPB(プライベートブランド)全体でも上位に入る商品だ。

カフェラテやブレンドコーヒーなど看板商品のみならず、最近ではカフェインレスコーヒーや、通常のMサイズの2杯分の「メガアイスドリンク」、紅茶など他の大手コンビニチェーンにはない商品にも力を入れている。

■「会話の要素が生まれると考えた」

そんなカフェに対するこだわりは、商品の提供方法にも表われている。セブン‐イレブンやファミリーマートが現場の負担軽減という点を鑑み、客自身にマシンで注がせるセルフ方式を採用しているのに対して、ローソンはあえて店員が注いで直接渡す「手渡し方式」を採っている。

マチカフェがスタートしたのは2011年。本格的にカフェブランドを展開したのは、大手コンビニチェーンの中でローソンが最も早かった。マチカフェを担当する山田英臣・シニアマーチャンダイザーは、「”みんなと暮らすマチ”を幸せに」という企業理念を体現するために立ち上がったプロジェクトがコーヒーだったと説明する。

からあげクンなどカウンターフーズの販売以上に、コーヒーは客と会話が生まれる要素が強いのではないかと考えた。目指すところはコンビニコーヒーではなくカフェ。対面販売でお客様との絆を強めることができる」(山田氏)。店内にカフェを作るというコンセプトの下、30~40代の女性をターゲットに、装飾や黒板POP(店内掲示)、カフェ風の制服といった要素を取り入れ、マチカフェが出来上がった。

(2018年05月04日 東洋経済オンライン)

 この記事の写真のように「かわいい」女の子が入れてくれるのなら、まだしも、自分の職場の近くのローソンは、店長自ら入れてくれる時がある。その店長が「いわくつき」なのである。夏場でも3日、4日はまず風呂に入らない。面倒くさい、のだそう。娘や息子も、親が「風呂を沸かさない」のだから、もちろん同じ。異臭が漂い、隣の席の生徒が「耐えられなくて」、トイレや保健室に駆け込む。あまりのひどさに、子供が通う生徒の女教師が、勤務終了後、女生徒を連れ近くの銭湯に行き、身体を洗ってあげる始末。お湯・手ぬぐいは、帰る頃「茶色」に変色し、ゴミ箱に捨ててきたそう。そんな「父親店長」に、手渡しで「コーヒー」を入れてもらっても・・・なまじ顔見知りだから、文句も言えず。はたまた、その父親は小学校のPTA会長ときているし。恐怖の瞬間である。

 その人の人となりがわかるでもなし、なんでも「手渡し」が良いとは限らない。ローソンが、その人の人となりをしっかり「管理」出来ているなら、いいのだけれど。

 今の世の中、誰かが、特に「供給」側が「いい」と言うものは、一度くらい「疑ってみる」ぐらいがちょうど良いのかも知れない。悲しいことだが・・・。

加害男性から手紙届かず。神戸連続殺傷事件。

 

~永遠に訪れない「許し」。時間が「あきらめ」に?

 

神戸市須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件で、亡くなった土師(はせ)淳君=当時(11)=と山下彩花ちゃん=当時(10)=の遺族に宛て、当時14歳だった加害男性(35)から命日の前に継続して送られてきていた手紙が、今年は届いていないことが弁護士らへの取材で分かった。淳君の命日は5月24日。父守さん(62)は「(男性にとって)手紙を書く行為が向き合うことになる。反省していないのではないか」と語る。 手紙は、加害男性が医療少年院を仮退院中の2004年8月に初めて届いた。その後は命日が近づくと、男性の両親の代理人弁護士を通じ、遺族に渡されてきた。しかし男性は15年6月、遺族の承諾を得ずに事件の様子などをつづった手記を出版。16、17年も弁護士に手紙が託されたが、両遺族は受け取りを拒否した。

 弁護士によると、両遺族への手紙は近年、彩花ちゃんの命日(3月23日)前の2~3月に届いていた。昨春以降は男性と連絡が途絶えており、「今年は届かない可能性が高い」とする。

 淳君の父守さんは「私たちが手紙を受け取るかどうかと、(男性が)手紙を書くことは別の話。未来永劫(えいごう)、受け取らないつもりはない」とした上で、「なぜ子どもを殺したのか。その『なぜ』を知るために、決して楽な作業ではないが、手紙を読んできた」とする。

 彩花ちゃんの父賢治さん(69)は「彼が手記を出版した時から一切関わりたくないと思ってきた。罪の意識を持って歩んでいるとは思えず、過去の手紙も、本心か分からない。もし手紙が送られてきても読む気はない」と話す。

時計2018/5/3 06:00神戸新聞NEXT

 

 加害者、酒鬼薔薇 聖斗なる人は、もう35歳になるのか。時間の流れを感じる。被害者家族が苦しいのは、被害者家族にだけ、その時間は進むことがない、ということか。

 残虐な行為の中で、愛息子・娘を殺された、その映像は、ずっと消えないんだろう。だからこそ、加害者に「反省し・すべて話す」よう求めるし、手紙も受け取れないのだろう。だが、加害者自身に、どこまでが「すべて」なのか、わからないのだろうし、「反省」の仕方・方法も、たぶん見つけられないまま、月日が過ぎている。そして、生活の中に風化しているのだろう。時間とはそういうものなのかもしれない。

 「手記」は、反省の為ではなく、「生活」のため、生きていかなければならない「社会」とはいかなるところか、確認するために出されたものだろうから、被害者家族の心に届かないのも、仕方がない。

 酒鬼薔薇 聖斗なる人のホームページもほぼ閉鎖状態で、彼が今、社会の中で何を考え、何を煩悶しているのか、わからない。35歳になる前科者にとり、社会は当たり前だが優しくない。しかも、前代未聞といっていい程のショッキングな事件を起こした、彼を見る、世の中の「好奇な」「冷たい」目は、彼が「老人」と呼ばれるついてまわるだろう。一昔まえならいざ知らず、ネットの中にも永遠に残る事件の足跡。それが、彼への「永遠の罰」なのかもしれない。それは、時間を止めることなく、彼についてまわる。また、この事件は医療少年院の存在意義や教育の有効性も問われた事件でもあった。その総括は何も行われず、風化していった。

 被害者遺族の心が救われる事は、これからもないのか。2人の被害者の冥福を、改めて祈りたい。

 

 

「ぼくは人間」がちょうのがっちゃんに見る「幸せ」の形。

 神戸市立王子動物園(同市灘区王子町3)に、飼育員らから「自分を人間と思っている」と評されるガチョウの雄がいる。放し飼いされている広場で群れに加わることはなく、若い女性に体をすり寄せたり、飼育員の膝に乗ったり-と、興味を示すのは人間ばかり。3月に伊丹市で発生した鳥インフルエンザの感染予防のため、約30羽の鳥と一緒のおりに一時収容された際には、飼育員を心配させるほどの落ち込みぶりだったという。(那谷享平)

2009年5月に同園で生まれたガチョウの「がっちゃん」。動物と触れ合える広場「動物とこどもの国」で、別のガチョウ2羽やアヒルなどと放し飼いにされている。飼育員らの後ろをてくてく歩く愛らしい姿が人気で、がっちゃん目当てに同園を訪れるファンもいるという。 飼育員たちが注目するのは、その“鳥ばなれ”した行動だ。人の膝に進んで乗ったり、体をすり寄せたりするのは「本来、鳥のしぐさではない」と獣医師の花木久実子副園長。「人工的に飼育されたひなが人間になつくことはあるが、成長すると普通は人間から距離を取るようになるのに…」と首をかしげ、他の飼育員たちも「絶対に自分を鳥ではなく人間だと思っている」と口をそろえる。

 人間的な振る舞いで飼育員も魅了するがっちゃん。だが、3月1日に伊丹市内で鳥インフルエンザの発生が確認されると、人気者の生活は暗転した。

 同園は飛来する鳥との接触を避けるため、放し飼いにしている鳥をおりに収容するなどの対策を同月3日から実施。がっちゃんもアヒルや鶏など約30羽と一緒に、入園者が入れないおりに移された。他の鳥が身を寄せ合って暮らす中、がっちゃんは完全に孤立。うなだれたようにじっとすることが多く、飼育員を見つけると、出してと言わんばかりに鳴いたという。

 鳥インフルエンザ対策は先月26日に解除。鳥ばかりに囲まれる孤独な生活を2カ月近く送ったがっちゃんも、晴れて元の広場に戻された。すぐに元気になり、大型連休中も連日、子どもたちに囲まれている。相変わらず他の鳥には近づかないが、花木副園長は「おりにいる間はつらかったと思うけど、今は生き生きしている」と目を細めた。時計(2018/5/2 14:30神戸新聞NEXT

 

 仲間とともに暮らす事が幸せなのか、「人間」と錯覚して生きるのが「幸せ」なのか。「幸せ」の形は、きっといろいろあり、他人が決められないものなのかもしれない。不可抗力での「錯覚」がきっかけとはいえ、人間の中で生きたいと願うがっちゃん。もちろん「意図的」に錯覚させるのは言語道断だが。

 今の世の中、ともすれば、「・・・・するべきだ」的な「強制的な」価値観の中、生きがちだが、先を見すぎず、一日一日、生きていく。ささやかな、普段、気にしない程度の中に「幸せの形」が潜んでいるのかも。社会で生きていく上でのストレスのほとんどは「人間関係」であるともいう。集団にいられないことからくる「孤立感」「孤独感」。または「承認欲求」からくる「胸かきむしる程の嫉妬心」など。

 がっちゃんの「生き方」が、自分たちに、「集団」へ帰属するだけが「幸せの形」ではないかもしれないと、教えてくれる。